二十歳のきみへの手紙
Tへ
二十歳の誕生日おめでとう。日本にいたら、もっと感慨深いんだろうと思います。来年の1月には成人式があって。米国では、大騒ぎされるのは、21才になる来年だけどね。
きみのはたちの誕生日を迎えて、しみじみ一番うれしく思うのは、きみが健康でいることです。
あたりまえすぎる、と思うかもしれません。本当なんだよ、それでも。もちろん、はえば立て、立てば歩めの親心、の言葉のように、欲が出そうになったことがあるのも本当です。
きみには前にも話したことあるけど、私は、きみが16才の時、卒親しました。何もかもをするのをやめたわけじゃないし、前と変わらぬ普通の生活だったけど、私の気持ちの中で、きみを、庇護のいる子供として見るのをやめました。自分のことを保護者と思わないようにしました。
昔から、手を出さないように意識はしていました。宿題を手伝ったこともないし、したいというまで、こちらから押しつけないようにしていたし。
健康でいることがいちばんうれしいと書いたけど、本当。もっと言うと、健康で、生きてはたちの誕生日を迎えられることがうれしい。
おかあさん、すぐ生き死にのこと言うよね。死を簡単に、軽く話題にしたり笑い話にするのを、おじちゃんはじめ、いやがる人が多いのも知っています。でも、おばあちゃんのように、そんなふうに生き死にを口にするのを、いいと思ってくれる人もいます。ここでは、きみ相手なんで、使うね。きみも、苦手だけどね、死ぬ、とかいう言葉。映画やゲームじゃ平気なくせにね。
去年、大学に入るきみが家を出るとき、きみへの思いをエッセイに書きました。そのこと教えてあげたけど、いつか読む、今はその気にならない、と言われて、そのままだよね。エッセイがどこにあるかも知らないものね、きみ。
でも、去年は、大学の授業は全部オンラインだし、寮は閉鎖されるし、きみは結局うちに帰ってきました。
コロナがおさまってきた今年は、大学も以前のようになったみたいですね。改めて家を出ていったきみからは、電話もテキストも、ほとんど来ない生活になりました。
いちばん感じるのは、きみが、行っちゃったな、と。
さみしい。
けど、うれしい。
今回は、去年の別れのときの気持ちにくらべると、2度目で慣れてるのもある。それから、私たちがきみを見ないということは、どこかで、私たちの知り得ないような経験をしているということだし。
どこにいても、どこかにいる。
何をしているか知らなくても、何かをしている。
極端なこと言うと、これから先もう2度と会えなくても、私はうれしい。
きみが生きてたら、うれしい。
おかしいかな?
これからも、今以上に連絡もコミュニケーションもない時期があるかもしれない。
でも、私は、うれしい。
きみが生きてるだけでうれしい。
きみが2歳になった時、もちろん、そこまですこやかに成長したことがうれしかった。でも、私は同じくらい強くホッともしました。2歳を迎えたということは、それ未満の子供に起きたかもしれない悲劇を経験しなくてすんだ、と。
それは、毎年思いました。実は、今年も思っています。
けさ、きみの誕生日で電話をくれたおばあちゃんとも、そんな話をした。
安堵。
立派かどうかは別にして、すこやかに二十歳を迎えたこと。まちがった道にいく、とか、取り返しのつかないことをしたり、そんなことが起きる、日々の心配が過去形になったこと。
きみを見てるのが楽しいです。自分の子供じゃなくても楽しかったと思う。きみの友だちのだれやかれやのことを聞いて楽しく感じるように。自分よりずっと後に生まれた世代が、なんてしなやかなんだろう、なんて発想をするんだろう、と。そんなものを、自分の身近に感じられて、しあわせな気持ちです。
おかあさん、見てるね。きみのサッカーの試合見に行って、ルールも100%わかってないのに、声援だけ送ってたみたいに。クロスカントリーの大会で、みんな苦しそうなのによく走るなあと思いながら、みんなの名前を声かけしてたみたいに。きみのボヘミアンラプソディーのピアノ演奏や、美女と野獣の舞台での独唱を、録音で何度も聴きなおしたように。
成果。評価。
コントロールできないこと。
意欲。満足感。幸福感。
ちょっとはコントロールできること。
助けてくれた人たちや環境のおかげはある。
でも、全部きみのものだよ。
おかあさんからは、きみに贈る言葉は特にないです。パパじゃないし、ね。きみの方が、私より人間としても優れていると思うし。
会えなくてもしあわせ、と書いてはいるけど、もちろん、顔見せてね。
T、大好きだよ。
きみが何しても、どうしてても、
大好きだよ。
やすこ
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この企画に参加しています。
うたさん、わたし、子供に手紙書いちゃいました。書かせてくれた企画に感謝。ありがとう。
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