常田大希とポップアート
ども、やきこいもです。
常田大希がミレパでやっていることはポップアートなんだ!ということを言ってきましたが、新生MILLENNIUM PARADEが本格的に活動を開始してついに常田大希の本性が顔を出し始めた。
アンディ・ウォーホル
彼は京都で開催されたアンディ・ウォーホル展にミレパの前身であるDTMP「Mannequin」を楽曲提供しています。
この記事から常田大希とポップアートの関連性を決定づける文があるので引用する。
更にApple Musicのインタビューではこうも明確に語っている。Apple Musicを利用されている方はMILLENNIUM PARADEのページに飛べばこの一文が記載されているので見てみてください。
アンディ・ウォーホルといえばポップアートの巨匠で簡単に言うとThe Velvet Underground&Nicoをプロデュースしてアルバムジャケットも手がけていたり、キャンベルのスープ缶、マリリン・モンローとかで有名な人です。
ポップアートは1950年代後半から1960年代中盤にかけてアメリカを席巻していた雑誌や広告、コミック、テレビ、映画、著名人といった大量消費社会のイメージをコンセプトやモチーフにしてアートにしたもの
アンディ・ウォーホルがこれらの作品を資本主義に対する風刺としてつくったのかどうかは分からないが、そのような捉え方も出来るのは確かだ。彼自身は政治には無関心だったという。
ウォーホルの発言としてこんなものがある
「人々が必要としないものをつくる。それがアーティスト。そして彼らは何かの理由でそれらをつくることが善だと考えている人だ」
真のアートとは固定概念をひっくり返してしまうものだが、アンディ・ウォーホルの作品は正にそれだった。「マリリン」は253億円で落札されたが、これは20世紀の作品としては史上最高額である。
音楽で例えるならトラップ全盛期にはトラップのフォーマットに則った楽曲をつくり、EDM全盛期にはEDMをやれば短期的には売れるのだ。音楽ジャンル的な柵でいえばアメリカは強く、ましてや外から入っていこうとすると迎合せざるを得ないところがある。
K-POPはその代表例といえるが、それがBTSの「Dynamite」がアメリカの壁を破って以降は世界的にK-POPの立ち位置も変わり、NewJeansが登場した。
NewJeans「Ditto」はボルチモア・クラブ、ジャージー・クラブを取り入れた楽曲でTIK TOKのようなショート動画系のプラットフォームから世界的な音楽ジャンルとして波及していく。日本でもCreepy Nutsがいち早くジャージー・クラブを取り入れた楽曲「Bling-Bang-Bang-Born」が「マッシュル-MASHLE-」のアニメタイアップとしてリリースされ世界的にヒットしました。K-POPが世界の音楽シーンの潮流を変えたのだ。
だが、こういうトレンド的なものをずっと冷めた目で見ていたのが常田大希という男だ。彼は常にトレンドに乗せることより、どうトレンドを作りだすか?どうすればトレンドを覆せるか?そもそもトレンドとかどうでもいいからなくせないか?そういうことばかり考えてきたのだと思う。
アメリカの音楽シーンではレコード会社がTIK TOKで規定の再生数に達しないようなら新曲はリリースさせないという圧力をかけていたことがアーティスト側の抗議で問題となった。めちゃくちゃ売れてるアーティストならレコード会社を説き伏せることも出来るかもしれませんが、ひと握りでしょう。意に反してレコード会社のマーケティング戦略に乗せられるアーティストもいたということだ。
TIK TOKはまだ出ていないが、2016年にリリースされたDTMPの1st「http://」はそのようなトレンドに対する明確なカウンターとしてつくられたもので、ジャンルや言語といったあらゆる制約から逸脱した荒唐無稽で軽薄な景色こそがアジアであり、日本の強みであるとした作品といえる。筆者にとっては実家のような作品だ。
この作品は完全にアートとして製作された作品の為、サブスクによる配信が今後あるかどうかは分からない。ここまでに配信されていないことを考えれば常田大希の意向であることは容易に想像がつくので希望薄であろう。
millennium paradeとして再始動してからは視点が変わることとなる。
1st「THE MILLENNIUM PARADE」は音楽ジャンル的な制約からは依然として解放されてはいるものの、日本の音楽業界に蔓延る歌謡秩序、J-POP的な曲構成(ストーリー性)からは逸脱していない作品といえる。
常田大希本来の音楽性と国内の制約を敢えて融合し、King Gnuから招いたJ-POPリスナーとアートの接続を試みた作品であると同時に、前述の日本の音楽業界の問題点を描いているという点で大衆とアートの接続というポップアートの機能を体現した傑作といえる。
更に加えて注目したいのが「Fly with me」と「Philip」である。どっちもラップの要素が入ってはいるが、メロディアスになってしまってもいる。これはHIPHOPの美学のようなものが日本では完全には根づかないことを暗に表現しているのだと思う。
そしてアルバムの構成として、「Philip」以降は井口理がボーカルとして入ってきて「FAMILIA」というバラードで終わる。この流れには「中立の崩壊」が見られる。
中立であるということはミレパのテーマである訳だが、最終的には善悪といった二元論に意図せず吸い込まれてしまうことを「Fireworks and Flying Sparks」で描いてからの「FAMILIA」というストーリーが描かれている。最終的には何事も「分断」から逃れられないというのは歴史的に見ても自明の理だ。近年よく見られる「多様性」という言葉も分断そのものと言える。日本の音楽業界と常田大希の音楽は相容れない。だから日本で活動する以上、「FAMILIA」のようなバラードを良しとするような美学に回帰していくのは仕方がないという諦観がここにはある。常田大希は日本の音楽業界に対して肯定も否定もせず、ただ世界が違うと割り切るようになった。
日本にHIPHOPの美学は根づかないし、歌謡秩序からは逃れられない。それは変わりようがない。だから自分の美学を押しつけることはしない。「多様性」を押し付けて攻撃するのではなく、まずは自分の軸をしっかり持つ。その上で自分とは違う価値観を受け入れる。これが真の意味での「多様性」なんだと思う。
長くなったが、この作品が再評価される日が来ることを願う。
対して新生MILLENNIUM PARADEは歌謡秩序や典型的J-POPの曲構成からは解放されたものの、ジャンル的な制約が新たに生じていることは明らかだ。
これはジャンル的な制約から解き放たれなければ新たな景色は見えてこない、トレンドを意識したことがないと語る常田大希の音楽観からはありえないことであり、海外(特にアメリカ)の音楽シーンに蔓延する問題点を浮き彫りにしている。
「M4D LUV」の1:30~2:00は、TIK TOKではい!ここで切り取って踊ってくださいと言わんばかりだ。ちょうど30秒というのもまた恐ろしい。
完全に洗脳され、虚ろな目で踊らされるキャラクター達はアメリカの音楽業界を風刺したものと考えられる。同時に5人一組というところからもアイドルに対する懐疑心が現れているように思える。アイドルそのものというよりはそれを利用している側だったり、応援している側であったり、権力者への批判といったところだろう。アイドルの象徴としての鬼天使が赤ちゃんのような容姿なのはぺドフィリア(小児性愛)を極端に描いたものと捉えるのは考えすぎだろうか?
日本国内ではジャニーズ創業者・ジャニー喜多川氏の性加害が大問題となった。この件に関してラジオで批判的な言及をした音楽プロデューサー・松尾潔氏が自身が所属するスマイルカンパニーからの契約を解除された。山下達郎のような大御所のアーティストも会社の方針に賛同したということで山下氏にも批判が集まった。このような犯罪が大きな権力の元では擁護に傾いてしまうという現実がある。
NewJeansのプロデューサー・ミンヒジンもInstagramでの投稿からぺド疑惑がかけられて炎上するなど、アイドルとぺドフィリアは切り離せない問題となりつつある。
鬼天使には天使のような羽がついているが、見た目に惑わされてはいけない。中身は悪魔そのものだ。人間はつい表層的な情報や魅力で物事を判断してしまう。だから本質を見逃すのだ。
そして、その鬼天使もやっていることは権力者の模倣であるのだからどうしようもない話だ。権力者が鬼天使を愛玩したように鬼天使もまた人間を愛玩している。毒親問題とも繋がる話だ。
また、鬼天使はペットAIであるがシンギュラリティを引き起こしたこの世界では人間とAI、果たしてどちらがペットと言えるだろうか?
音楽アーティストが人気を獲得していくとアイドルのように扱われる傾向が強くなっていく。今では音楽教養のような扱いになっているビートルズも登場当初はアイドルのように騒がれたというが、ポップミュージックをやっていく上で避けられぬ宿命といえるのかもしれないし、常田大希が今後の活動で向き合っていくテーマの一つでもあると思う
前述の通りウォーホルが自身の作品を風刺として捉えていたかどうかには疑問が残るところだが、常田大希やMVのストーリー製作に携わるチームは明確な悪意として作品をつくっていると私個人としては解釈している。
音楽業界を取り巻く問題と社会問題に深く切り込んだ作品にしたいという気持ちが強いのだろう。特に常田大希の活動初期から関係のある山田遼志氏は社会派のアニメーターだ。
millennium parade「Philip」に込められたメッセージは深潭そのもの。「Philip」に関してはCarlosさんの解釈が素晴らしいので是非読んで頂きたい。
また、常田大希はMUSICAのインタビューで2023年3月に行われたBjorkの来日公演についてこのように語っている。
もしBjorkの音楽を本当に求めて聴いている人がこんなにいるのなら、国内からBjorkのような音楽性のアーティストが出てきて大きな支持を得ていてもおかしくはない。だが、そうはなっていない。つまりは日本の客に本質を見抜く審美眼などなく、ただBjorkのカリスマ性に魅せられているだけ。少なくとも常田大希にとってはそう思えてしまったんだろう。
これらは日本の推し文化やアイドル文化の特異性に直結している問題ではないのか?だとすれば、今の日本の凋落とも無関係ではないだろう。
故に常田大希は「私は特別ではない」「有名無名なんて関係ない」「神格化なんて別にしたくない」と口にするのである。今までのミレパの音楽が本当に好きだというなら、GOLDENWEEKやM4D LUVを聴いて少しでも違和感を抱くはずだ。もしそうでないとするなら己の中にある欺瞞と見つめ合う良い機会だし、そうしなければ今後常田大希は貴方に鋭い針を刺しにくるだろう。
ここまで大衆と誠実に向き合う音楽家は中々いない。音楽的には器用すぎるほどだが、人間的には不器用すぎる。決して入れ込みすぎぬようにはしているし、彼も間違えることはあるだろう。だが少なくとも音楽家として俺は信用している。
少し話がズレた気もするが、常田大希とポップアートの関係は切っても離せない強固なものであり、彼を語る上では欠かせない視点であるというのが私の意見である。
最後に希望的な予想
「GOLDENWEEK」と「M4D LUV」は常田大希が最も意識しているアーティストの一人であるJames Blakeにおける「CMYK-EP」である可能性が高いと思っている。それまでにリリースされた楽曲の流れを裏切ったアルバムが出ることが大いに考えられる。
90年代、Nirvanaが後にグランジ・ロックと呼ばれる過去にも未来にも例のないアンダーグラウンドからの咆哮を上げた。
商業的には及ばないもののJames Blakeもまたミニマルな音像で極限まで音数を減らし、後にポスト・ダブステップと呼ばれるジャンルをつくりだした。プロデューサーとしてもBeyonceやKanye Westのようなビックアーティストの作品に携わるなど、正に10年代音楽シーンの寵児だった。
このような音楽革命を起こすようなアーティストを日本から眺め続けていたのが常田大希だった。日本のアーティストである限りその土俵にすら上がれない。Srv.VinciからKing Gnuに改名して以降はひたすら駆け上がり続けた。
James Blakeはその後もグラデーションは変えるもののポスト・ダブステップからダンスミュージックに回帰するまで10年以上をかけたし、音楽性の変化という意味では曲ごとに全く色を変えていく常田大希とは真逆の存在といえる。
またミニマル化していったといわれる10年代の音像に対して「Fly with me」や「Trepanation」、「2992」のような曲を出せるのもカウンターとして面白い気がします。
足し算を極め、あらゆるジャンルを横断する鬼才・常田大希は20年代音楽シーンに新たな潮流をつくりだせるのだろうか?
この記事もポップアートのように少しでもあなたとアートの距離を縮める一助になれば幸いです。
ここまで読んで頂きありがとうございました!