マスクをつけることで晒される顔
2020年5月7日にFacebookに投稿した内容。その後のコメントでのやり取りも取り込みつつ、こちらに転載。
オフィスを持たないことが単にコストを削減するという意味を包含するもう一枚外側の大きな解釈の枠組みを構築できないのであれば、それは組織としての基盤が脆いことを意味しているのではなかろうか。
After コロナ、ないしは、With コロナ、どちらでもいいのだが、コロナ禍にともなう言説というのは、〈コロナによって私たちはどう変わるのか?〉という〈変化〉の文脈で語られがちだけど、実は〈そもそも私たちはなんだったのか?〉という、〈定義〉をほじくり返す暴力性があるように思う。
コロナ後を語ろうとすれば、畢竟、コロナ前を見つめ直さなければならない。〈変化〉というのは、事前と事後のあいだの差分だから。コロナ後への視線は、先を見据えているようでいて、其の実、コロナ前という、その人の足元を映していたりする。
「コロナによってなにかが変わったわけではないのでは?」という問いは、ひとつの思考トレーニングだと思う。
変えたわけではなく、暴露しただけではないかと。暴露されたものに対して、「気付きたくなかった」「気付いたけどこのあとどうしたらいいかわからない」「気付かないフリをしている」「気付いた結果、気付く前の方がよかったことに気付いた」といった反応が、人それぞれで分かれている。その分岐の様子が(世界の)〈変化〉として語られてる。変わったのは、世界ではなくて自分。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?