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読み手のことを考えてはいけない

文章の書き方を指導していると、「読み手のことを考えてはいけない」と口にしていることがある。

「読み手のことを考える」ではない。
「読み手のことを考えては『いけない』」のだ。

文章の書き方に戸惑っている人は、「こういう書き方で失礼にあたらないでしょうか…」という戸惑いを吐露することがある。この逡巡は、読み手のことを考えているようで実は、「私は読み手にどう思われるだろうか」というふうに、書き手である自分のことを考えてしまっている。

読み手のことを考えているうちに、書き手である自分のことを考えてしまうという倒錯が、どうして起こるのか。

この不思議に向き合うための補助線を引くのが、《機能する文章》という「文章」観だと思っている。

■鑑賞でなく、機能する文章

高校生の文章指導をしつつ、自分自身も仕事で様々な文章を書くようになった私は、今の文章教育に、生活の中で「機能する文章」という領域がすっぽり抜けているのを感じずにはいられなくなった。

例えば、自分のミスで仕事先の人を怒らせてしまった。会ってももらえないから、もうお詫びの手紙を書くしかないというとき、そこで求められるのは、「信頼回復」という「機能」を果たす文章だ。

ところが、学校で学んだ詩や小説の鑑賞や、現代評論、作文の方法では太刀打ちできない。将来、詩や小説を書く子供より、上記のような必要に迫られる子供の方が圧倒的に多いにもかかわらずだ。

一方、 実用文書の書き方となると、 報告書など、どうしても限られた範囲になってしまう。

この間、 つまり、 実用以上、 芸術未満の領域がないのだ。 生きていくための必需品のような文章。「生活機能文」とも「コミュニケーション文」とも言えるジャンル。本書では、それを扱う。

文章に限らず生活全般において、幼少期から教えられる「相手のことを考える」というお作法は、厳密に言うと「相手の気持ちを考える」ということなのだろう。この訓示は、「最初の社会性を身につける」という、幼保における成長課題としては理にかなっている。

そして小学校に上がり作文教育が始まると、「相手」が「読み手」に言い換えられて、「読み手のことを考える」≒「読み手の気持ちを考える」という《鑑賞》が始まる。

もちろん《鑑賞》自体が悪いわけではないのだが、仕事を含めた日々の生活の中で求められることが多いのは、《機能する文章》の方だ。

しかし、《鑑賞》から《機能》へと、文章観を意識的に更新する機会というのは、少ない。

すると冒頭の「こういう書き方で失礼にあたらないでしょうか…」のような、読み手の気持ちを考える《鑑賞》的文章観にもとづいた戸惑いが生まれる。

それでは、《機能する文章》への転換とは具体的にどうすればいいのか。

では、状況の中できちんと機能する文章を書くために、何と何を考えていけばいいのだろうか?

そのために、私が必要だと考える7つの要件を挙げておこう。

『伝わる・揺さぶる! 文章を書く』

ということで、以下の7つが挙げられている。

  1. 意見:あなたが一番言いたいことは何か?

  2. 望む結果:だれが、どうなることを目指すのか?

  3. 論点:あなたの問題意識はどこに向かっているか?

  4. 読み手:読み手はどんな人か?

  5. 自分の立場:相手から見たとき、自分はどんな立場にいるか?

  6. 論拠:相手が納得する根拠があるか?

  7. 根本思想:あなたの根本にある想いは何か?

《望む結果》《読み手》《自分の立場》《論拠》に共通するのは、「読み手」だ。

興味深いのが、《自分の立場》であっても、《相手から見たとき》の自分の立場であるということだ。また《論拠》も、《相手が納得する》という方向性/レベルにおける論拠だということ。

このように、《機能》的文章観においては、徹頭徹尾「読み手について」考えることを求める。

ただし、「読み手」について考えるといっても、《鑑賞》的文章観において最重要だった読み手の「気持ち」が、表立っては出てこない。仮に「気持ち」について考えるとしても、《4. 読み手》の一部に抑えられている。

つまり、《機能》的文章観において「読み手について」考えるべきは、「読み手が置かれている状況」であり「読み手が見ている世界」であり「読み手の動機(要望)」であるのだ。

このことを、《鑑賞》的文章観の中にいる(が、そのことに自覚的でない)人に伝えるために、私は冒頭のように「読み手のことを考えてはいけない」と訴える。

《鑑賞》的文章観の中にいる人が無意識に結んでいる「読み手≒読み手の気持ち」という等号を取り払ってもらい、《機能》的文章観に意識を向けてもらうために、「読み手のことを考えてはいけない」という若干センセーショナルな言い方をするのだ。

そういった楔を打ったうえで、次は《機能》的文章観に立って「読み手について」考えてもらうために、「読み手が置かれている状況」「読み手が見ている世界」「読み手の動機(要望)」などを問いかける。

重ねて、こういう言い方もする。

自分の頭で考えてはいけない。
相手の頭で考えるのだ。

《鑑賞》的文章観の中にいる人が「自分の頭で考える」と、往々にして「私は読み手にどう思われるだろうか」と「自分のことを」考えてしまう。そこから抜け出し、《機能》的文章観に立って、真の意味で「相手のことを」考えてもらうために、「相手の頭で考える」ことを求める。

「相手のことを考える」
「自分の頭で考える」

前者は社会性を身につけるために、後者は思考力や自律性を身につけるために、しきりに浴びせられるこの2つの言葉はしかし、子どもから学生へと、そして学生からビジネスパーソンへと彼/彼女の置かれた環境が変わるにしたがって、ある種の倒錯を孕む。

その言葉を通して身につけてきたものが、新しい環境においては逆効果になることがあるのだ。

過去に文章指導について書いた記事。

だから、文章指導は、極論すると、文章を見てはいけない。文章の先にいる書き手や、書き手の〈自己認識や他者意識〉を見ないといけない。文章を見るだけの文章指導は早晩、機械に代替される。

やはり、文章指導は文章を見てはいけないと、あらためて思う。文章の先にいる書き手を見る。今回は、書き手の中に無意識に存在する文章観に目を向けてみた。

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