読み手のことを考えてはいけない
文章の書き方を指導していると、「読み手のことを考えてはいけない」と口にしていることがある。
「読み手のことを考える」ではない。
「読み手のことを考えては『いけない』」のだ。
文章の書き方に戸惑っている人は、「こういう書き方で失礼にあたらないでしょうか…」という戸惑いを吐露することがある。この逡巡は、読み手のことを考えているようで実は、「私は読み手にどう思われるだろうか」というふうに、書き手である自分のことを考えてしまっている。
読み手のことを考えているうちに、書き手である自分のことを考えてしまうという倒錯が、どうして起こるのか。
この不思議に向き合うための補助線を引くのが、《機能する文章》という「文章」観だと思っている。
文章に限らず生活全般において、幼少期から教えられる「相手のことを考える」というお作法は、厳密に言うと「相手の気持ちを考える」ということなのだろう。この訓示は、「最初の社会性を身につける」という、幼保における成長課題としては理にかなっている。
そして小学校に上がり作文教育が始まると、「相手」が「読み手」に言い換えられて、「読み手のことを考える」≒「読み手の気持ちを考える」という《鑑賞》が始まる。
もちろん《鑑賞》自体が悪いわけではないのだが、仕事を含めた日々の生活の中で求められることが多いのは、《機能する文章》の方だ。
しかし、《鑑賞》から《機能》へと、文章観を意識的に更新する機会というのは、少ない。
すると冒頭の「こういう書き方で失礼にあたらないでしょうか…」のような、読み手の気持ちを考える《鑑賞》的文章観にもとづいた戸惑いが生まれる。
それでは、《機能する文章》への転換とは具体的にどうすればいいのか。
ということで、以下の7つが挙げられている。
意見:あなたが一番言いたいことは何か?
望む結果:だれが、どうなることを目指すのか?
論点:あなたの問題意識はどこに向かっているか?
読み手:読み手はどんな人か?
自分の立場:相手から見たとき、自分はどんな立場にいるか?
論拠:相手が納得する根拠があるか?
根本思想:あなたの根本にある想いは何か?
《望む結果》《読み手》《自分の立場》《論拠》に共通するのは、「読み手」だ。
興味深いのが、《自分の立場》であっても、《相手から見たとき》の自分の立場であるということだ。また《論拠》も、《相手が納得する》という方向性/レベルにおける論拠だということ。
このように、《機能》的文章観においては、徹頭徹尾「読み手について」考えることを求める。
ただし、「読み手」について考えるといっても、《鑑賞》的文章観において最重要だった読み手の「気持ち」が、表立っては出てこない。仮に「気持ち」について考えるとしても、《4. 読み手》の一部に抑えられている。
つまり、《機能》的文章観において「読み手について」考えるべきは、「読み手が置かれている状況」であり「読み手が見ている世界」であり「読み手の動機(要望)」であるのだ。
このことを、《鑑賞》的文章観の中にいる(が、そのことに自覚的でない)人に伝えるために、私は冒頭のように「読み手のことを考えてはいけない」と訴える。
《鑑賞》的文章観の中にいる人が無意識に結んでいる「読み手≒読み手の気持ち」という等号を取り払ってもらい、《機能》的文章観に意識を向けてもらうために、「読み手のことを考えてはいけない」という若干センセーショナルな言い方をするのだ。
そういった楔を打ったうえで、次は《機能》的文章観に立って「読み手について」考えてもらうために、「読み手が置かれている状況」「読み手が見ている世界」「読み手の動機(要望)」などを問いかける。
重ねて、こういう言い方もする。
《鑑賞》的文章観の中にいる人が「自分の頭で考える」と、往々にして「私は読み手にどう思われるだろうか」と「自分のことを」考えてしまう。そこから抜け出し、《機能》的文章観に立って、真の意味で「相手のことを」考えてもらうために、「相手の頭で考える」ことを求める。
前者は社会性を身につけるために、後者は思考力や自律性を身につけるために、しきりに浴びせられるこの2つの言葉はしかし、子どもから学生へと、そして学生からビジネスパーソンへと彼/彼女の置かれた環境が変わるにしたがって、ある種の倒錯を孕む。
その言葉を通して身につけてきたものが、新しい環境においては逆効果になることがあるのだ。
過去に文章指導について書いた記事。
やはり、文章指導は文章を見てはいけないと、あらためて思う。文章の先にいる書き手を見る。今回は、書き手の中に無意識に存在する文章観に目を向けてみた。