若手の育成を、世代論に矮小化せずに、キャリアを取り巻く不可逆的な環境変化から見通そうとしており、共感の深い一冊。
若手の育成を世代論として捉えることは悪手だと思っている。その理由は、この一説に集約されている。
では、〈キャリアを取り巻く不可逆的な環境変化〉とは一体何なのか。本書でいくつか挙げられているなかで、最もインパクトの大きいものが《選択の回数が飛躍的に増えた》ことだと思う。
《選択の回数が飛躍的に増えた》というのは、見方を変えると、〈【いま】の有限性〉を意識せざるを得ない、ということなのかもしれない。
2018年と少し古いのだが、Jリーガーの言葉を紹介した別の記事からの一節。プロのアスリートである彼らが、〈【いま】の有限性〉を強く意識していることがよくわかる。
《選択の回数が飛躍的に増えた》結果、〈【いま】の有限性〉を意識せざるを得ないという、〈キャリアを取り巻く不可逆的な環境変化〉。その是非や好悪とは別に、いったんその環境変化を事実として受け入れたとすると、キャリア自律支援とはどのようなものになるのだろう。
これはとにかく、何事においても「本人が意識的な選択をする」ことを促す、という一点に集約されるのではないだろうか。
つまり、選択の結果としての「いまの仕事を続ける」や「辞めて新しい仕事に移る」は、支援する側からはアンコントローラブルであり、かつ、支援する側がそこをコントロールしようとすること自体がキャリア「自律」と逆行するという理由から、キャリア自律支援の論点にはそぐわない。選択の「結果」にフォーカスするのではなくて、とにかく〈本人が意識的な選択をする〉という「プロセス」にこそ注力する。
辞める辞める詐欺ではないが、自分にとって真剣な選択肢になり得てない、つまり、〈意識的な選択〉の俎上に載せられていないからこそ、現実逃避的(≒消極的)な選択としての「辞める?」「辞めない?」が、本人の中でぼんやりと立ち上がってきてしまうのではないだろうか。
この「ぼんやり性」がキャリア不安の正体だとしたら、ぼんやり性に輪郭を与え、〈意識的な選択〉として本人の前に晒す。〈【いま】の有限性〉に直面してもらう。その時、私(本人)はどう感じるのか。そうやって、本人に自己理解に向き合ってもらう。
辞めるにしても辞めないにしても、飛躍的に増えた選択を彼らが常に「意識的に」べットできるよう支援することが、〈キャリアを取り巻く不可逆的な環境変化〉の中を生き生きと進んでもらうことにつながるのではないだろうか。