係がいないのに、灯り続ける火
先日、ユニバーサルツーリズムで信濃比叡というお寺に立ち寄りました。私はサポーターとして。
※ユニバーサルツーリズムは体や心の不自由があってもいける旅行のこと
30歳くらいのキリっとした和尚さんがお出迎えしてくれました。カラオケの時にマイクの下の方が上にあがりそうなキリっとした感じの方です。
和尚さん:信濃比叡みたいに、比叡を名乗る許可をもらってるのはここだけなんです。
(なんかすごいお寺っぽいぞ)
和尚さん:ここには、延暦寺から分けてもらった不滅の法灯があります。
(不滅のほうとう?なんか、すごいに違いない名前!帰ってから調べたんですが、西暦788年から今日まで絶えず灯し続けているらしい)
和尚さん:この火ですが、なたね油を継ぎ足して灯し続けています。実は延暦寺ではこの油を注ぐ『係』をつくっていません。
(なんと!?)
和尚さん:それぞれの僧がその火を守るため、お堂にたちよるたびに確認して保ちつづけてきています。
788年から2023年まで、係なしで灯し続ける火。
仕事をしていると、係ってつくるじゃないですか。でも、そもそもの係を作る意味は考えることなかったなって。はっとしたわけです。
あらためて考えてみます。
係をおくと責任がはっきりする一方で、係にならなかったときには責任感がうすくなるなって思うんです。例えば、延暦寺の油注ぎ係が機能しなかったら、係いがいのサポートはないので、それで消えてしまうじゃないですか。
逆にリスクあるんじゃないかってこと。
それから、係がないときはそれぞれが『責任をもつ』に対して、係に決まった時は『責任を負う』って感じですよね。
僕の感覚でいえば、自分で責任を持とうとする時ってモチベーションにつながってやる気になる。逆に、責任を負うってときは、なんかこう、「せねばならない感」からストレスを感じます。
すごく昔からのとりくみなのに、みんなが“わたしがやる”になる組織は、最新のものとして紹介されていたりします。分散型自律組織(DAO)といって、注目されていますね。
僕らの在宅福祉領域でいえば、オランダの地域看護で「ビュートゾルフ」と呼ばれるものがあります。責任者をつくらない組織形態により、オランダの地域看護でもっとも成功しているという話を思い出しました。
あたらめて、係って本当にいいの?と立ち止まって考える。そして、みんなが“わたしにできること”を考える組織になりたいです。
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