「占う」ということ
今日は天体解剖は少しお休みして、つい最近、ふっと、おりてきたこと。
なにかに導かれるように衝動的にホロの本を買ってから早半年弱経った。
人を「占う」なんて、まだそんな大層なことを出来るほど知識も勉強量も全然足りないし、自分のこともまだまだ掘り足りない。
むしろ自分をもっと掘らなければ人のことなんて「見られない」とも思ってる。
いわゆる自己管理出来てない人間が他人様にアドバイスするなんてそんな偉そうなことは出来ないし、怠惰な人にアドバイスをもらってもなんの説得力もない。
それが例えば、今後もしも対価を頂いてやるようになったなら余計。
(そうしていけるようにやっていきたいとは思ってる)
「占星術」ってだけあって「術」を使うわけだからそれなりにやはり身は削られる。
それに裏付けされる技術、体力、気力(いろんな意味で)、知識、勉強量、経験値、センス。決めつける訳じゃないけれど、それらが確実に必要なものだと思った。
改めて調べてみたら「何回も行って自分のものとなった能力。手仕事の能力。学問。わざ。」「一定の技能によって行われる仕事。その仕事のやり方。」って辞書記載笑
うん、がんばろ…。
と言ってもひょんなことから先日後輩のホロを出すことになって、はじめて人のホロを噛み砕いた。
キーワードを何個も出し、組み合わせて文章を作って、はじめて「見えたものを伝える」ということをしたけど、人に伝える難しさを久しぶりに感じた。
ありがたいことに、他人とのコミュニケーション能力に関して長けているとは思う。
それは対面であれば尚良し。ただやっぱり文字や文章を扱うことは好きだけど難しい。
普段から自分の口から発する言葉、発言などは自分を苦しめない程度に気を遣っている。
思ったことをそのまま伝える場合もあれば、一呼吸置くこともある。
ただ、一呼吸置いた方が、その場の雰囲気への順応力と伝えるものの選択肢は増える。
それでも言葉は時として「傷」にもなれば「癒し」にもなる。
文字や文章の場合、最新の注意を払いたいと思った。
「占い」は「その人をみる」ことだと思う。
ホロは間違いなく良いことばかりが出てくるわけではない。更にはデリケートな部分も見えたりする。基本的にエネルギーたちに優劣はないという概念だし、違いは個性と捉えるけれど。
本人からしたら自分の中で嫌な部分の可能性もある。
それをあえて「見て」「伝える」という行為はなかなか難易度が高くて、尚且つその人の人生を覗かせてもらうことなのかなと思った。でもこれはある種の主観が入ると出来なくなる。というかシンプルにやりづらい。
あくまでも「結果」や「事実」として伝える。
(大体みんな他人だけど友達とかになると正直やりづらいなという体感)
幸いホロを出した後輩は昔から知っているけれど、ものすごく近い関係値ではなかったのでフラットに伝えられた気がしている。
こういう気付きを与えてくれたその子に感謝したい。
客観性の訓練とでもいうのかな。
フラットでいること、いられるようにコントロールすること。
「占い」という稼業はある種ヒーラーみたいな役割だろうし、それもおそらく人によって瞬間ごとに変わるだろう。友達だから言えることもあれば、全く関わりが無いからこそ言えることもある。
「その人」の人生への敬意と感謝。そして巡りめぐってきたご縁。
誰かの背中をそっと押せるようにホロと関わっていきたいと思った。