反権威の皮を被る権威主義者 #2: 母権パターナリズムと母親になれない女性のためのフェミニズム
ぶっちゃけ矯風会的なものは、日本の伝統ではない。
そして家庭内の序列、家庭観の問題。
このあたりの背景の一つに、本邦特有の母権社会・母権パターナリズムが存在する、と過去に指摘した。
具体的な事例としてはこんな感じである。
そして「女性=弱者」図式を利用した"男社会"への逆襲のロジック。
これに関しては良解説があった。
こういう枠組みの中で語れる事例、確かにどこかで見聞きしたパターンだ。
そうなると、ここまで色々と集めて読んでみて、ある点が気になるのだ。
母権社会・母権パターナリズムは、ある種の文化的な適応現象だと仮定すると、確かに専業主婦にまつわる問題や言説に見通しの良い一貫したロジックが成り立つ。
それは「母親の権利」と「女性の権利」の違いとして記述できる。
この問題を教えてくれたのは、人民網日本語版記事『「女性の権利」よりも「母親の権利」が重要視される日本』だ。
そして上で引用したymils氏の一連のツイートと併せて読むと、第4波フェミニズムの裏の顔が見えてくる。
母親になれない・なる気のない女性にも、母親と同じ権利をよこせ、という目標が。
ここで言う母親は2つの意味がある。
一つは社会的ポジションとしての"母親"である。特に賃労働忌避のロジックの部分がそうだろう。
もう一つが、このような主張をしている連中の"母親"である。
その背景には、若年層を中心に貧困化と二極化が起きているからだ。途上国のスラムに住む女性の考える先進国の男との結婚とマインドセットは変わらないのかもしれない。
そして母親になれない・母親になりたくない女性の背景も経済的な理由があるのだろう。こういう指摘がある。
簡単に言えば親世代よりも生活や教育レベルが落ちるのが当たり前、という社会経済情勢である、ということなのだ。
それが母親になれない・なる気がない、という形で表れている。
恵まれた母親を見て、同じ豊かさと権利を夢見るも、社会の変化がそうさせてくれないという相対的剥奪感。
それが「女性の権利」獲得運動の皮を被った、「母親の権利」獲得運動であり、第4波フェミニズムの正体なのではなかろうか。