見出し画像

共感が社会を破壊する

「ごめんで済むなら警察は要らない」というクリシェがあるけれども、最近になって上位バージョンが登場したようだ。

最近見つけたツイートから

これまでは"共通の敵"を設定して動員を仕掛けるというやり方が有効だったのかもしれないが、最近は違う。

この水銀氏の指摘は、昨今の"社会運動"なるものの影の部分を指摘しているし、人権と人情が同じものとなってしっている現状、そしてアイデンティティ・ポリティクスが流行る原因もそうだ。

そのアイデンティティ・ポリティクスにも限界はあるし、批判もある。

尤も、本邦で際立っていることだが、学歴を業績として扱わずに属性として扱うことで組織のホメオスタシスを保つという風土と、アイデンティティ・ポリティクスは相性が良い。


ダンバー数を越えて:近接性概念のアップデート

人がスムーズかつ安定的に関係を維持できる人数は上限があって、それは霊長類の脳の大きさと関係があり、人間の限度は150人程度である、という人類学者ロビン・ダンバーが提唱した理論がある。

この"関係を維持できる"という事柄を検討してみよう。というのは

  • よく見る赤の他人

  • 顔は知ってるけど名前は知らない人

  • よく〇〇しているのを見かけるいつもの人

という物理的な近接性と、

  • 名前も顔も知らないけど共感できる相手

  • ネット上でよく絡んでいる仲間

という非物理的な近接性に、"近接性"を分解してみると興味深いことに気付いたからだ。

インターネット普及以前から"共同体"の空洞化も"共同性"の消滅も進んでいた。( miyadai.com/index.php?itemid=844 )

上で挙げた物理的な近接性の一つの特徴は、顔を知っていたり、行動を知っていたり、と実際に目で見て当人を"知っている"点だ。

ところがネット時代の近接性は共感可能性である。

これが不安で有権者を釣り、不安を感じる俗情に媚びるポピュリズム政治を駆動する大きな要因であり、21世紀に入ってから世界的な傾向として見られる。その背景に情報過多と過剰流動性からくる不安があるのは確かだろう。

そう、ここで俗情に媚びるポピュリズム政治の作法が完成するのである。

「勝ち馬に乗れ」という処世術と東浩紀的「動物化」

内田樹氏もこう指摘する。

今時の感覚として「批判」自体が「陰キャ」の営みであり「キモい」、という。

一方、若者たちはそうは考えない。「批判ばっかりする奴はウザい」などと考えている。
これは政治に限った話ではない。そもそも、「なにかを懸命に頑張って取り組んでいる人」に対して、やたらに批判的な言動をとる人は、「足を引っ張る人」「文句ばかり言う人」「和を乱す人」――つまり、いわゆる「陰キャ」なのである。
「偉い人」なのに「かわいくて」「親しみやすい」安倍総理を、しばしば口汚く攻撃する野党や知識人・文化人たちは、彼らにはみな「陰キャ」で「かわいくない」ものとして映っている。

なぜ若者は、それでも「安倍晋三」を支持するのか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73403

今井議員が発した「批判のない政治」というのは、この発言に憤りを覚えた人びとが考えたような「(安倍)独裁政治を擁護する」ニュアンスの言葉ではない。「やることなすことにいちいち批判したり文句言ったりしてくるような陰キャが湧いてこないスタイルでやっていくんでよろしく!」といった意味合いの言明だったのだ。
若者たちにとって、「批判」とは建設的で価値中立的な営みではない。攻撃性や陰湿さといった、ネガティブなニュアンスをともなうワードなのである。

なぜ若者は、それでも「安倍晋三」を支持するのか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/73403

この「批判」が攻撃性や陰湿さといったネガティブなニュアンスを伴うワードになってきたのはなぜだろうか?

時間感覚や空間感覚がショートスパンになる結果、「長い因果系列を見極めた戦略的行動」ができなくなり「目先の現象を快不快原則に基づいて追いかける態度」、すなわち東浩紀氏の言う「動物化」の結果と考えられないだろうか。

「批判」とは不快なノイズなのだ。だから皆が「勝ち馬」に乗りたがる。

だから政権批判は「空気を読めていない」「かき乱すな」「不愉快」なものとなる。

そこに投票を通じて代議制民主主義を支える公民は成り立たなくなる。

なぜなら合意形成や意思決定が共感というsystem 1でなされるのであれば、山本七平的な「空気の支配」から逃れられない。

そこを熟知した「空気を読む」政権が岸田内閣だ。

「声のでかいやつが発言権を得る」に似て、「一番多くの"いいね"を集めたやつが権力を握る」社会であり、ノイズを嫌うがゆえに「空気の支配」が政治空間を覆う。

それは「見たいものしか見ない」と言われても仕方のない態度に見えるかもしれないが、実際は自分の半径数mしか見ない「動物化」したヒトが増えた結果でしかない。

将来はどうなるのか:政治的な自由と経済的な自由のトレードオフ

コロナ関連の政治決定「政治の恐ろしさ」を味わされた若い世代が、もっと政治志向になるのか、というのが今後の分岐点になるだろう。

現実の問題として、政治的な自由以前に経済的な自由度が若くなればなるほど低くなってきていることを考えると、経済的な自由という生活に直結する問題にフォーカスが移っていくことが想定される。

それを踏まえれば、経済的な自由へとシフトしていく流れは止まらない。これは従前は新自由主義化と呼ばれていた流れだ。

そして誰かがやってくれるから任せようという形で社会への関心が失われていく。これが21世紀における権威主義化のメカニズムだ。

この流れに対抗するには、以下の戦略もあり得るだろう。

顔が見える範囲でコミュニケーションを取りながら、合意を形成していく。
エリアが小さければ、当然ながら生活形式の共通性があるため、共通感覚や共通前提が生まれやすくなる。

これは古典的な近接性への回帰であり、民主制の単位を小さくするというアイデアだ。

しかし、個人的には異を唱えたい。

そのような小さなユニットだからこそ、感情のエコーチェンバー現象が起きやすくなって制御できなくなるだろうし、これまでのような大規模定住社会を運用できるとは思えない。

そして見ず知らずの人間を信用しない傾向がある中で、果たして共通感覚や共通性が生まれるのを期待できるのだろうか。

この点においては私は新反動主義者だ。

いいなと思ったら応援しよう!