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1年前の今日。
2024.01.01
忘れもしない能登半島地震。
東日本大震災を経験した身としては
フラッシュバックして怯えていた。建物内にいることが怖くて地震がおさまった時点で外に飛び出した。携帯だけ持ってそのまま地震情報に目を向ける。友達から心配の連絡が届き、安否を伝える。その間も心臓はバクバク。震源が実家に近いこともあり、親へ連絡するも繋がらない。心配がより一層強くなる。その後も余震はひどくなかなか家に戻ることができない。I時間ほど経ち、家に戻ると荒れ果てた光景。とりあえず片付け、その間も余震があるためその度に外に飛び出しては階段を登り降りして揺れを紛らわせる。非常用バックを近くに置き次に備える。夜になっても親とは連絡が取れず、心配が募る。2日になっても3日なっても連絡が取れない。家の電話も携帯も繋がらず。そんな中、情報がちょっとづつ発信され、道路の寸断や斜面崩壊など状況がわかってきた。4日になり、ようやく母親から連絡。無事だと分かった。しかし、母親は医療従事者のため1日から家に戻れておらず、父親の安否がわかっていない。家の状況も分からず、父親が無事であるとわかったのは5日のことだった。津波が来るから避難所に逃げてと消防のひとが来てくれて車で避難所へ。地域の人たちがみんな集まっているため車でずっと寝泊まりをしていたようだ。家は無事なものの、またいつ地震が来るかわからない状況だったため片付けに帰っては夜避難所に戻る生活をしていた。父と母が再会できたのは地震発生から1週間後。ただまた仕事に行かなくてはならない母親は父の確認と家の確認をして宿泊道具を持って仕事へ。医療従事者だから仕方ない。父親が1人だったのですぐにでも向かいたくても行けなかった。実家に行けたのは1ヶ月後。ちょうど1年前の今日。昔の光景とは一変し、ぼう然とした。道路は凹凸、家は潰れ、街が変わってしまっていた。自然と涙が出てきた。家に着き、数時間だけ滞在できた。お正月の飾りは当時のまま。父親一人で片付けをしているのでまだまだ発災当時のまま。テーブルの上は避難所から貰ってくる物資で溢れかえっていた。物資があるとは言え、ナマモノが食べれていない状況で魚が食べたいと、海鮮のお弁当を調達。父親の嬉しそうな顔は忘れられない。普段口下手な父親もこの日は饒舌であっという間に時間は過ぎ、また来るねと。現状が把握でき、少し安心できた。そのあと1ヶ月ごとに実家に帰っては海鮮を届けた。1年たった今、公費解体が進み1年前とはまた違った光景になった。家がほぼなくなり、更地に。少しづつ、ゆっくりと新しい町に変わっていこうとしている様子が伺い知れた。