技を盗んで学べは古いか問題

職人界隈だと「見て盗んで学べ」は割と昔から伝統的にそう思われていたようだけども、なんか最近それは古いらしい

この問題に関して、二つの点で間違っている事に言及したい

まず、盗んで学ぶに関して前提を考えるべきである

後継を育てたり、労働者を育成するなら指導すべきである
見てわかるまで学べと言うのも、本当に学ぶまでお金が出るならそれはそういうやり方しかそこはできないってこと

一方で、仕事しろと言われているのに、教えてもらえないのは古い考えというよりは、その人がおかしいだけで古いと言われるのは変に思う

単純に職場の選び間違いで、そんなに学びたいならお金を払って講師をしてもらえばよい

そして、見て学ぶは、まさに後者で

その仕事を生業にして一人前になりたいから、弟子として入っている訳で
師匠からすればたいして実力もない若手を入れて、自分の商売のタネを見せている訳で、嫌ならやめればよい

もちろん、後継がいないと技術や伝統の問題もあるが

職人からすれば、なぜ自分の技術を懇切丁寧に若手に教えなければならないのだろうか

というスタンスの違いであろう

このスタンスがお互いかみ合ってないのであれば、議論は平行線である


次に、「見て学べ」以前にちゃんと調べたのだろうか?

全て教えてもらうというのは、仕事であれば必要な事は教えるべきだが、技術職以外にも現在は職業選択が自由だ

別の仕事にすればよい

そして、私は古典を読んで思うが、多くの技術者が技術を残すために必死に色々とやっている

私の専門の鍼灸であれば、今はネットで古い古典を無料で読めるし、詳細な図も探せば載っている

学ぶ対象は師匠以外にも、現代は沢山転がっているのである

言葉にできない技術がある
学問であるなら体系化すべき
は、ある程度の対立構造である

名選手が名コーチでないのと同じで
実力があるから、それを言語化できて当たり前は変である

以前堀江さんが寿司職人の修行年数の長さについて、ちゃんと教育すればもっと修行年数を短くできるというのはまさにそうで

多くの一般人は、寿司の味の差などほとんどわからない

並べて食べれば差もわかるかもしれないが

三日位空けて、目をつぶって食べたらほとんどその差は分からないだろう
少なくとも金額差ほどの味の違いを私は分からない
どちらかと言えば雰囲気なども加味した差である

しかし、中にはその微妙な差がわかる人がいる
(というより、雰囲気やテンポ、その他さまざまな状況も含めて、料理になっているのであろう)

それらを完全に再現しても
コピーにはなるが、きっと客はコピーと思うだけである

絵も研究すれば、たぶんAIがピカソでもゴッホでもそれっぽい絵を描ける
一般人はきっとわからない

でも、わかる人がいる

そういった神業の領域は、ある意味極端な例外で、それを体系化するのは体系化の前提に不相応である

まとめると、そもそも「見て学べ」はおかしく
見て学ぶべき技術があるなら、学べばよい
仕事を学ばせる気がないなら辞めればよい

今翻訳している「論衡」的にも
上司に恵まれなくて出世(一人前に成長)できない状況である

まさにその典型例の様に思えたので、投稿しました

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