予想できないから偶然「論衡9」
本来の偶然とは予想できなものであり、意図して行った場合は偶然ではない
新幹線のグリーン車やテレビ局の前を歩いていれば芸能人に合う可能性が高まる。それを何度も繰り返せば「偶然」芸能人に出会ったとは言えない。
宝くじを買って、大当たりが出るのは偶然ではない
人からもらった宝くじが当たれば、偶然である
偶然の出来事は人から称賛され、運に恵まれない人は相手にされないが、それは正しい評価ではない
偶然は運によるものであり、努力では補えず、その人の才能とは関係がない
真にその人の能力を図るには偶然で判断してはいけない
以下原文と翻訳です。
且夫遇也,能不預設,說不宿具,邂逅逢喜,遭觸上意,故謂之「遇」。如准推主調說,以取尊貴,是名為「揣」,不名曰「遇」。春種穀生,秋刈穀收,求物得物,作事事成,不名為「遇」。不求自至,不作自成,是名為「遇」。猶拾遺於塗,摭棄於野,若天授地生,鬼助神輔,禽息之精陰慶,鮑叔之魂默舉,若是者,乃「遇」耳。今俗人既不能定遇不遇之論,又就遇而譽之,因不遇而毀之,是據見效、案成事,不能量操、審才能也。
#また、偶然の出会いとは、予測されないものであり、言葉では完全に表現できないものである。突然の喜びや、意図せずに出会った喜びや、意図せずに出会った気持ちに遭遇することを「遇」と言う。ただ主の意向に従って謀略を巡らし、尊貴を得るために行動することは「揣」と呼ばれ、遇とは呼ばれない。春に穀物を植え、秋に収穫する。物を求めて物を得ること、事を成し遂げることは「遇」とは言わない。自ら求めずに訪れ、自ら行動せずに成し遂げることが「遇」と呼ばれる。まるで道端で遺失物を拾ったり、野原で捨てられた物を拾ったりするように、天が与え、地が育むように、霊が助け、神が後押しするように、禽の息が精を生み、鮑叔の霊が黙って起き上がるように、このようなことが「遇」である。今日の俗人たちは遇か否かを定義できず、遇に遭遇すると称賛し、遇に出会わないと批判する。これは結果を見て評価し、事実を総合的に判断することができず、能力を評価することができないためである。