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いのちの星のドーリィ考察(アンパンマン映画)
聖蹟桜ヶ丘の土手。午後三時頃。
思い思いに以前から行きたかった場所を散策しているときがあります。
この日はそんな日でした。
穏やかながらも、電車が走っているのが見て取れて、川と急行電車の対比が
あたかも自然という静寂の中から都会の喧騒を見ているような気持になりました。自分はあんな風に働いていて、これからもそうするのだろうか。
そんな疑問が浮かんできました。
ふと子供たちが遊んでいるのを見て、自分はどういう子供だったろうかが気になってきました。自分の人生のヒントはそんなところにあるんじゃないのか?
気になって帰って小さいころ観ていたアンパンマンの内容が気になり、調べてみると人気の映画に気になるタイトルがあったので観て考察してみました。
アンパンマンの名作映画と呼ばれる「命の星のドーリィ」をご存知でしょうか。
2006年に放映されたこの映画は、今でもwebのアンパンマン歴代映画ランキングで、一位、といわれています。
本作はアンパンマンが事実上命を失うという衝撃的な内容だったため、記憶に残っている人も少なくないのではないでしょうか。
★何を伝えようとする作品なのか★
本作の大きなテーマとして生きる意味はなんなのかがあります。また、本作は随所にアンパンマンのマーチの歌詞が出てきており、OPの歌詞をより深い物語にしてそれについて解説をしようとしているのが見受けられます。
もう一つのテーマとして過酷な生い立ちを経たとしても人間はやさしさに目覚めることができる可能性があるという示唆もあります。また、やさしさは循環するということ、自己犠牲には救いがあるということも伝えようとしています。
これについては後ほど解説していきます。
★どーりぃとはなにものなのか★
さてこの映画には主役が三人います。一人はドーリィ。一人はアンパンマン。最後はスーパーカビだんだんです。まずドーリィについてお話しします。
ドーリィは物語冒頭で海の波の中を漂っていました。後々語られますが持ち主に捨てられています。
持ち主に捨てられたドーリィは命の星が偶然降ってきます。この命の星が偶然降ってきたラッキーにドーリィは命に執着します。
その執着は学校での自己中心的ともいえる行動によく出ています。
「せっかく助かった命なのになぜ他人のためにいきなくちゃいけないの?」
お腹が満たされていて、パンをたくさん持っている人間は他人にパンを配る余裕があります。しかし、おなかをすかせていてやっと見つけたパンをたやすく譲れる人
間はそうはいません。
ほかの生徒、例えばかばお君たち、はやさしさに囲まれて生きています。優しい生徒と先生とアンパンマンに囲まれて暮らしてきた彼らにとってやさしさとは自然にそこにあるものであって分けてもなくなるものではないからです。
これがドーリィには理解できず、馴染めずにいました。
さらにドーリィには理解できないものがありました。パンの数にかかわらず、パンを配ることができる存在「アンパンマン」です。
★アンパンマンとは★
原作者のやなせたかしさん曰く、アンパンマンとは「最弱のヒーロー」です。困っている人を助けるために自分の一部を差し出すことができる存在であり、それにもかかわらずちょっとした水やカビによって力がなくなってしまう「弱さ」があります。
この弱さを抱えながらそれでいて他人のために見返りがない奉仕をするというのは他ならぬ愛と勇気の体現者なように思います。主人公でありながら完成された存在であり、その点命を与えられたドーリィからすると違和感を感じずにはいられなかったのかもしれません。
また、アンパンマンも命の星によって誕生しているため、ドーリィと出自が同じなのに全く違うことをしているアンパンマンに対して思うところがあったよように思います
★命の星とは何なのか★
命の星とはアンパンマンの世界でたまにものに命を吹き込む夜空から降ってくる星です。アンパンマンもこの命の星がジャムおじさんが作ったアンパンに宿ることで命を宿します。アンパンマンにはたくさんの星が降ってきて命を宿していますが、ドーリィには星が一つだけ降ってきています。
さて本編ではドーリィは自分勝手に生きることに決めて、徹底して自分の楽しさのために生きることにします。
でもこれを続けていくうちに自分の命の星の輝きが失われていってしまいます。これは他者にたいしてやさしさを与えてこないことによるものだと私たち視聴者には伝わっているかと思いますが、これは命の星によって命を得た生き物の特性であるように思いました。
さてここで私は「あれ?」って思いました。作中にも自分勝手に生きているキャラは複数いるからです。その代表がばいきんまんです。
さて、ばいきんまんやドキンちゃんはなぜ命の星がきえないのでしょうか。
そもそもばいきんまんは雷の光で生まれています。もしかしたら逆にばいきんまんは自分勝手に生き続けないと消滅するのかもしれません。原作詳しい人教えてください。
★スーパーカビだんだんと対比★
本作最後の主役、スーパーかびだんだんについて話していきます。スーパーかびだんだんはアンパンマンと戦うためにばいきんまんによって生み出されてた兵器です。
そうであるにもかかわらず、ドーリィとの共通点は多いです。まず最初に兵器でありますが、人型で意思を持たないもの、つまり人形と一緒です。
そして完成したカビだんだんはどきんちゃんがのぞ望んだような「かわいい」人形ではなかった。これは望まれない子という暗喩であり、持ち主にいじめられていたドーリィとかぶります。おそらく現実での親から子へのネグレクトや虐待を暗喩したのではないでしょうか。
ばいきんまんの基地がドキンちゃんとドーリィの喧嘩によって爆発してカビだんだんは谷の底へ。
これはドーリィが海に放り出されていたのと被っています。
そこから失意のときに命の星が降ってきたドーリィ、雷の光が降ってきたカビだんだん。人の優しさに触れたかどうかで作中では大きく運命が異なることになりました。
このように境遇は同じようなものでも、運命が大きく異なった二人の主人公。この対比によってやさしさとは何なのかを描こうとしているように思います。
★伝えたかった事★
さて物語終盤でアンパンマンはドーリィをかばってカビだんだんの攻撃を何度も受けてしまいます。アンパンマンは固まってしまって、命の星が抜けてしまい、ジャムおじさんが焼いたパンでも復活できなくなってしまいました。つま
り、死んでしまいます。衝撃的なこのシーンはドーリィが自分の命の星をアンパンマンに捧げることによって蘇生されます。
復活したアンパンマンは器用にカビ段々を翻弄してトドメに命の星の輝きを纏ったアンパンチによって倒します。
ここで自分の身を削ってパンを配り、敵と戦い、他人を救い続けてきたアンパンマンが他者からの自己犠牲を返してもらえます。アンパンマンが自分の人助けについて苦しさを覚えているのかどうかわかりません。しかし、同じように他人のために生きていて、日々頑張っている人たちへのメッセージなのではないかと私は考えます。優しさは無駄ではない。自己犠牲はそれだけで終わるものではなく循環するものであると。
そう、この話はドーリィが優しさに気づき、生きる喜びに目覚める話でもあると同時に、アンパンマンにとっての救いのはなしでもあります。
自己犠牲は必ず報われること。愛は孤独ではないこと。
現に自己犠牲を行ったドーリィは最後に命の星によって復活し、人間の子供に生まれ変わりました。
★OPついて(生きる意味とは何なのか) 表のテーマについて★
さてこの映画のキャッチコピーは「教えて、アンパンマン!生きることの素晴らしさ! 」です。私達に生きることの素晴らしさを教えてくれたとともに、アンパンマンもまたそれを実感できたことを願います。