さよなら、チロ
最近、お友達のブログや、インスタで繋がっている沖縄の方の投稿から
『 沖縄では、ショックなことがあると「マブイ(魂)を落とす」という言い方があるそうで、落としたら戻ってくるまで待つ 』
という言葉を目にします。
私は、近頃やっと、マブイ(魂)が戻ってきた気がします。
長らく、マブイ(魂)を落としていることにも、はっきりとは気付いていませんでした。
魂を落としていても、割と普通に社会生活は送れます。
笑って話しもしますし、遊びにもいくし、恋愛もします。
ただ、そんなことをしているうちに、落としていることを忘れ、戻ってくるのを待つことを忘れてしまっていたのだと思います。
なんだか生きづらく、いつも水面ギリギリで息をしているような状態が続いていました。
気付いてから、長く自分を癒すことを続けていたので、今になってやっと真打ちというか、あの時に魂を落としてしまったのだなという、過去のある出来事を思い出しました。
チロという、白くて可愛い、雑種の中型犬を飼っていました。
私が23歳くらいの時、チロはすい臓がんにかかりました。
回復の見込みはなく、家で看病しながら、最期の時を待ちました。
チロは元気になったり、悪くなったりを繰り返し、オムツをして立てなくなり、床ずれができてしまう状態になってしまいました。
それでも私たちが側に来ると、ニコニコして尻尾をふります。
すい臓がんは、とても痛みを伴う病気とのことで、夜になると、今まで聞いたことない声で、苦しみ、鳴きました。
泡を吹き、本当に苦しそうでした。
家族会議を重ね、安楽死をさせることを選びました。
当日、病院に連れていったのは、私と父でした。
他の家族は辛くて行けないと言っていました。
道中、車の中で、もう苦しくないからね、大丈夫だからね、と声をかけて撫でました。
分かっていたのか、穏やかで優しい顔をして、私を見上げます。
病院について、注射が用意され、チロは診察台に横たえられました。
注射は下半身にするので、私は上半身に身を寄せ、顔を見ながら撫で続けました。
いざ注射という時、父が、ダメだ、見ていられないと、病室を出てしまいました。
ここで私まで出て行ってしまったら、チロはひとりぼっちで死ぬことになってしまう。
出て行かず、そのまま撫で続けました。
チロ、チロ、大丈夫だからね、大好きだよと声をかけ続けました。
注射が打たれ、チロはゆっくりと瞼を閉じました。
いいこいいこ、ねんねねんね
もう痛くないからね
注射が終わりました、という先生の声が聞こえ、家に連れて帰りました。
用意していた寝床に花が敷き詰められていたので、仏壇の前に横たえ、そのまま仕事に行きました。
午前だけ半休をとっていたのです。
帰ってくると、チロは冷たく固くなっていました。
その時、初めてたくさん泣きました。
翌日、おばあちゃんの持つ山へ、両親がチロを埋葬しました。
あの時、落としてしまったんだなぁと思いました。
チロの最後をひとりで看取るのがつらかったこと
安楽死という選択をしたこと
あの可愛かったチロがもういないこと
落としたことに気づかず待たず、いつも通り日々を送り続けてしまったこと
その悲しみを癒してこなかったのです。
そのあとも、戻りかけては落とす、ということを繰り返してきたと思います。
離婚した時も、戻ってくるのを待たずにずいぶんと頑張ってしまった。
魂を落とすと、自分を大切にできないような感じがします。
大切にすること自体が、よく分からないような感じもします。
最近やっと、戻ってきたんだなという安心感が感じられるようになりました。
この状態のことを、本質と繋がる、とか魂と繋がる、とか、本当の自分で生きる、とか分かりやすい言葉にするとこんな風に言うのでしょうか。
心から血が吹き出したり、交通事故にあったくらいの大きな傷を負った時、目には見えないので、ケアを怠ってしまうことがあるけれど
目に見える怪我や病気と同じくらい、休んだり治療をしたりということが本当に大事で。
何より、後からでもいいから、魂を落としてしまうほどのショックを受けたことに自分が気付いてあげることが、癒すための重要なポイントだったのだなと思います。
ここ何日か、過去に失ったものへの悲しみが、いくつか浮き上がっています。
あの時、あまりにもつらくて、感じきれなかったけれど、今なら大丈夫と判断して、来てくれているのだと思います。
ゆっくり眠ったり、お風呂に入ったり、
たくさん泣いたりしながら、治るのを、戻るのを待つことにします。
いつも笑顔で可愛かったチロに、改めて、さよならを言おうと思います。