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駆け抜ける蒼燕 101-00002

トラウムなごや10号の男#2 高岡の場合

 用賀の料金所から首都高速3号線を道なりに走らせたら、六本木ヒルズとは10㎞と少し。先を急ぎ脇を抜けていく乗用車を悠々と見送るかのように、二階建てバスは静かに都心へと歩みを進めていく。
 午前6時の東京は1日の始まりなのか終わりなのか、その境界をどこに持てばよいかと困惑しているように見える。太陽は東からその存在を見せつけようとしているが、防音壁越しに広がる六本木の街はその摂理は関係なく時を刻んでいる。
 夜通し走るバスは次の朝を迎えるために西に東にと走る。乗客が夢の中にどっぷりと浸り身を委ねているうちに、目の前の世界の姿を変えながら歩みを進めていく。運転士の握るハンドルにはそれぞれの夢の分だけ重く、朝日が顔を出す時間にはもうひとつ、と、気を引き締めるような時間でもある。
              ◇ ◇ ◇
 六本木ヒルズの横を午前6時に通過するのは、このトラウム10号の時刻表にしてみれば久しく経験していない。乗務交代した静岡以降でダイヤが乱れることは最近ではなかったことだから、今日はとても運が悪いとしか言いようがないだろう。
 乗務交代したすぐ後、ちょうど由比のあたり。前方に走っていた4トントラックが横転していた。深夜の3時にもなろう時間に眠くもなったのだろう、危険を回避するために咄嗟にハンドルを切ったに違いない。1車線半も塞いで横転していた。幸い荷物の散乱もなく応急措置を施され通してもらったが、そこで小一時間くらいは待たされただろうか。いくらでもとは言わないが、乗用車で遅れ時間を取り戻すならばいくらかアクセルを強く踏み続ければ遅れは取り戻せることもあるだろう。多少の遅れくらいは見込んでダイヤを組んではいるが、それだけ待たされれば遅延も仕方がない。
 足柄SAで休憩の時間を取り、ルーティンのタイヤ打刻をしている背後から声をかけられた。乗客のようだ。彼は「このバスはどのくらいの遅れですか?」と聞いてきた。単純に言えば40分と少し、リカバリーができたとしても30分は遅れを覚悟したほうがいい。ただ、この後が順調に走れば何事もないけれど約束はしがたいものだ。
「この後、何事もなければだいたい30分くらいの遅れにはあると思います。東京駅には6時半くらいだと思っていただければ。ただ、お客様の目的地によっては途中の霞ヶ関で途中下車していただき、地下鉄をお使いになるのも良いかと思います」
 あまり乗りなれていないのだろうか、多少焦りと不安の顔がのぞいていた。スラックスにジャケット、中にTシャツを着ている感じからしたらおそらくは出張帰りで新幹線を名古屋で逃したのだろう。そして、金曜日の朝から会社にでも行かないといけない理由などもあるのか…。
 偶々ではあったが、1階席はすべて空いていた。もしもとは思っていたが、彼にこう声をかけた。
「良ければ、1階に移動してもらっても結構です。少しくらいならパソコンをお使いになってお仕事されてもいいですし、Wi-fiも設定できればお使いになれます」
 ああ、と彼は目を大きく見開いた。車に戻ってからほどなくして1階に荷物を動かし、仕事を少しでも進めることを選んだようだ。
              ◇ ◇ ◇
 海老名を走るころには空の色が少しだけ藍色に変わろうとしていた。足からからの長い下りを抜け少しづつ都会に近づいていくにつれ、ハイウェイ灯に照らし出される排気ガスの暖気と夜通し冷やされた空気が混じり焔のようにヘッドライトを揺らす。東京インターまであと10㎞のところまで来た。時計を見れば約30分の遅れのうちには着くような時間配分だ。
 車線いっぱいに車同士が間隔を取り、ビルの森をめがけて一挙に進んでいく。秒速22メートルを崩さずに進む姿を空の上から見たらどのように見えるのだろうか。ヘッドライトが線を引くベルトは原始には闇の中にあったであろう丘陵を太く強く横切り、放射状に散らされた筋を束ねるハブに向かっている。そのライトの大軍を迎え撃つかのように太陽がその東の先から立ち上がるかのように朝を迎えていく。
 気が付けば、後部座席からかすかに聞こえていたキーボードのタップ音が聞こえなくなっていた。もう少しで霞ヶ関に着くことに彼は気が付いているだろうか。赤坂見附のカーブに差し掛かれば、到着のアナウンスをかけるタイミングだ。
              ◇ ◇ ◇
 霞ヶ関のバス停に着いた。先を急ぐだろう乗客が次々に下車をしてきた。1階に移ってきた彼も足早に出てきた。トランクに預けていたスーツケースを渡すと「なんとか間に合いそうです」と小さく口角を斜めに上げながら笑顔を作っていた。私は帽子を直し、右手を小さく上げて目を細めた。
「お気をつけて、御乗車ありがとうございました」
 遅れて着いたバスを笑顔で降りる人なんてそうはいないものだ。その笑顔を見ただけでも、今日はいい乗務だったと思いたい。そして今日も最後まで事故なく走っていこう。次の停車は東京駅、終点まではあと10分…。

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