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210217【勇敢な戦士は羽ばたいていく】

2月3月と、別れのシーズンだったりする。これは決してネガティブなことが全てじゃない。はじまりでもあるのだ。今勤めている会社でも、2月早々に最終出社、3月末まではゆっくり有給消化に充てるということで、一人、最終出社を済ませた社員が居た。

脱出おめでとう、ブラック企業を超えて漆黒なるブラブラブラック企業からの脱出を。たぶん、多くのスタッフがそう思っていて、「だったらアナタも辞めればいいじゃん。」と突っ込みたくなるが、なかなか辞めないのは、居心地の良い地獄で、そのぬるま湯なるコミュニティから上がると、ブルッと寒くなるような組織なんだろうなとも思ったり。

入社して5年位だろうか、英語と中国語も操れるトリリンガル女性社員。一応、海外事業部がある今の会社で貴重な戦力として、役員の近くで仕事をし、よくスタバを奢ってもらっていた彼女。また、歌声が美声で、忘年会、カラオケではオーディエンスのウイスキー割がよく進むような歌声だった。ゴルフにもチャレンジし、圧倒的なオジサマ達からの人気を博しながらも、一定の距離を保っていたように感じる。社内御一行でのゴルフの際、二人乗りのカートは、紆余曲折あって自分と彼女で乗り、ラウンドしたことを思い出す。その時、悪徳政治家のような態度で彼女とツーショットを撮った写真は、今でもスマホに残っている。そんなことをして良いのかと思うかもしれないが、彼女は、社内では貴重な自分と同い年であり、“中堅どころ”な立ち位置であった。

そんな彼女から退職の話を初めて聞いたのは、昨年末の最終出社日だった。夕方頃、特に事前に社内アナウンスは無かったのだが、オフィス内で小さな納会が開かれた。缶ビール・缶チューハイにデリバリーしたオードブルが並べられ、日頃テレワークで、なんの仕事をしているのか、ちゃんと仕事をしているのか分からないスタッフも集い、この日だけはゴルフに行かない役員の簡単な挨拶の後に、乾杯。飲食を楽しむなり、仕事に戻るなり、そんな年末のほっこりした時間が始まった。こっちは年末年始のとある放送案件で調整中なのに、というところで、同じフロアのマイデスクに戻り、パソコンとにらめっこをしていた。そこに、缶ビール片手に彼女がやって来た。

「今年もお疲れさまでした。」の決り文句のあと、自分がふざけて、「いつ辞めるんすか?」と聞いた。

「最終出社は2月になるかな。」

冗談で聞いたつもりが、驚きの回答だった。

「まだ誰にも言ってないので、黙っておいてください。」

と彼女が言葉を残し、その後、役員のところに行き、退職の旨を告げた以降、役員のテンションが年明け後も落ち込んでいるのを、同じフロアでそうっと見ている。また、その他にも落ち込んでいるスタッフが居るようだった。とある上司の家で飲んだあと、皆が帰ったあと二人っきりになって、ベッドに誘って断られたにも関わらず、気になって仕方がないとある上司。「ごめんなさい、ホントに無いんで。」的なことを言われたとか。その上司、彼女の退職にショックを受けていただろう、退職の際に渡す送別品において、アイデア出しから熱が籠もっていたのはここだけの話。

たぶん、彼女なら、4月以降新天地で活躍できるだろう。応援している、そして、もし良いポジションあったら、自分をスカウトして。シロアリ駆除から宇宙開発までやるんで。

今の会社を辞めて行った人を何人も見てきたが、皆、活躍している。大空で羽ばたいている。送り出す側で、ずうっと居るのか、自身が心配になって、昔の自分が何故か出てくる。

子どもの時、クラスメイトの転校や学校の先生の離任に関して、あまり敏感では無かった。クラスメイトが、別れを惜しんで泣いたり、落ち込んでいるのをよく見たことがある。自分は一応心が通った人間ではあるが、当時、そんな感情にはならなかったなぁ。よく考えると、家庭の事情だったり、親の仕事の事情だったり、色々ワケありなのだが、「次の場所でも頑張れよ。じゃあね。」という感覚だった。高校くらいでまた会うかもな、なんて思ったり。

小学校2年生の時、東アジア系の外国人が転校生でやってきて、いきなりクラスメイトになって、2年間一緒に過ごして、またどこかに転校していったんだけど、仲良くして、連絡先を聞いておけばよかったと、ちょっと公開している。たぶん、すごく頭が良い家系だと勝手に思っているから。

また、自分の出身地は、田舎だが、大手企業の地方工場があり、大阪本社や東京からの転勤で定期的に転校生がやってきて、また転校していくのを見ていた。「良いなぁ、大阪。」と思いつつ、“転校生”という経験がない自分としては、転校先で友だちが作れるか不安になるので、なるべくしたくなかった。新しい環境に溶け込むのは、子どもの頃から苦手だ。だから、今の会社でも、じっとしているんだろうか。

また、感情スゴいな、という別れを経験したのは、小学校5年生の時。担任の先生が産休期間であり、代わりの先生がクラスを受け持つことになった半年間。兄さん的な立ち位置、年齢の先生で、クラスメイトからの指示が熱かった。その先生が任期を終えて離任する際、最後に音楽の授業で、先生に向けて感謝の言葉、リコーダーや鍵盤ハーモニカで課題曲を演奏するのだが、その際、最初の演奏スタートの合図は、何故か自分が担当していた。「せーの。」という合図だったかどうか忘れたが、これが先生との最後なんだという事で、泣き出すクラスメイトが複数居て、演奏に入れなかったのを覚えている。自分はどうしたら良いのか分からず、音楽の先生に助けを求めるよう目線を向けたが、その先生はゆっくり頷いただけでまともな指示をして来なかった。泣いているところを強行して演奏に入るのは申し訳ないし、それでも、自分の合図がないと何も進まない。これは何の板挟みかと思いながら、非道なる自分は、泣いている可愛げある児童を差し置いて強行演奏開始の手段を取った。まったく自分は可愛げがない。

そんな別れのシーズンを思い出して、社会人に戻る。今の会社で辞めていった勇敢な戦士たち、イカロスのように大空に羽ばたいた勇者たち。まあ、羽ばたいたのか、落ちていったのか、見方を変えれば、ただの脱獄だったのか。

自分は24歳、第2新卒的な立ち位置で今の会社に入ったのだが、同い年の新卒入社のスタッフが2人居て、周りからしたら、若手の良きライバルなる2人だった。その2人とは合コンにも行ったし、一緒に仕事をしたこともあった。ただ、いつの間にか消えていった。

一人は、行方不明になった。ある日突然、会社に来なくなったのだ。心配になって、上司や人事が連絡して探したとか。その横に居た自分は、「お前はそんな事するなよ。」と叱咤を受けた。もう少し柔らかい表現は無いのかと思ったが、まだまだ根性論が根付いていた当時、彼はその根性に嫌気が指したのか、それとも華々しいステージが見つかったのか、分からないまま居なくなった。もう一人は、大学時代ラグビー部で活躍したTHE体育会系の人間だった。とにかくスケールが大きい人間で、仕事はもちろん、女遊びも好きだった。その彼は、スクラムを組んでもびくともしない人脈を形成し、保険会社に転職、エリアマネージャーを経て独立したとか。

また、20代後半になった頃、事業拡大とともに同世代の社員が増え、一緒に仕事はしたが、数年も経つと、卒業、転職も盛んに行なわれ、それを目の前で見ていた。国内ニ大大手広告代理店にそれぞれ転職、大手新聞社に行った同い年も居たなぁ。今の会社で広告・メディア能力を培い、ジャンプアップしていく、もしくはホントに逃げていったのか。その根端部分を、送別会では聞けず、ホントに別れなのか分からないまま、その場の雰囲気、濃すぎるウイスキー割に酔っ払っていた。

隣の芝生は青く見える。まあ、まだまだ青い自分はどうしようかと思いつつ、もうすぐ10年目になってしまう。大した実績も上げてないまま。あぁあ、もう150万円給料が上がるなら、言うこと無いんだけどね。それを目指すなら、転職しろ、と言われそうだ。多少不便な点があったほうが、幸せを感じやすいってそういうことなのだろうか。

別れのシーズン、今後も勇敢なる戦士たちを見ていくことになりそう。自分もきっかけがあればと思ったり。

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