死 その2
このブログの1本目に、死を怖がる人はなぜ死が怖いのか、ということについて述べてみたのだが、まるで間違っていたようだ。
前回は、私自身は死後一切が無になると信じているから別段死を恐れないが、恐れる側の人々は、死後の世界を信じているから怖くなるのではないか、と結論付けてみたのだが、話は逆で、死んだら無になることが怖いらしい。
そうなってくると、ますますさっぱりわからない。
無になるのだから、怖いもクソもあるか、と思うのだが、まてまて、よく考えてみたら、怖いのは死んだ後の自分ではなく、そのことを考えている今現在の自分だ。
さて、では死んだら無になると想像してみよう。
うーん、怖くない。
私が経験した様々なことが、この世界から残らず消える。消えてしまうんだぞ、いいのか?
うん、怖くないし、ちっとも構わない。
一体、何が嫌なのかさっぱりわからない。
なんだろうか。執着か。
妻と出会って、子どもが産まれて、娘の描いた絵が新聞に載って、息子がスポーツで大活躍して、と、良い思い出は、他にも色々あるし、逆に嫌なことも色々あった。
これらが全て消え失せてしまう。
と想像しても、痛くも痒くもない。
生きた証、生きた意味がなくなる、と思ってしまうのか?
さて、またこの問題に行き当たった。
「生きる意味」
考え事をしたり、ウェブ上を漁っていたりすると、よくこの言葉に行き合うのだ。
私にとっての生きる意味というのは蜃気楼のようなもので、あるように見せかけて実はそんなものはどこにもない。
生きる意味があるとしたら、自分以外のものに何かを残しているかどうかであって、自らが自らの生きる意味を実感するというのは、少し話がおかしいような気がするのだ。それは他者の仕事だ。
生きる意味を言い換えて、なんのために生きるのか、とするのならば、自分以外のものに何かを残すため、となってしまうのか。それはそれで違和感がある。
何も残さない人は、生きてる意味がないのかと言えば、それはそうかもしれない。
だが、何も残さないというのは不可能だ。良かれ悪しかれ、存在するだけで他に対して影響がある。何かしら残る。
だから、何かを残すために生きるというのも、(まあそういう立派な人もいるにはいるだろうけれど、)全体に敷衍して述べるのは不適切だろう。
やなせたかし先生には悪いけれど、なんのために生まれて...なんて考えてもしょうがない。生まれちゃったから生きてるだけだ。
私は若い頃「君は他力本願」と言われたことがあり、その時はピンと来なかったのだが、振り返ってみると確かにそうだ。
自分の力でなんとかしたことなどほとんど無く、たいがい人の力や時の運でなんとかやり過ごしてきた。
もしかしたら、死んで無になるのが怖い人というのは、ものすごく頑張っている人なのではないだろうか。
そう考えると、死後のことまで他人任せな自分が急に恥ずかしくなってきたのだが、実のところ、「生きる意味」についての自分の考えに妙に自信があるというのも偽らざるところなのである。