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「称」という漢字
対称という言葉に、「称」の字が使われるのはなぜだろうか。
「称」という漢字だけを見て想起するのは、「名称」「愛称」「称する」などで、いずれも名前にまつわる意味合いを持つ。
しかし、「対称」という言葉には、名前にまつわる意味合いを見出せない。
ウィクショナリーに非常に簡潔な記述があった。
字源
「稱」の略体、「稱」は「禾」+音符「爯」の会意形声で、「爯」は「爪」+「冉」の会意であり、手で天秤を持つ様を表し、穀物を量ることを意味する。
意義
1. (「秤」に同じ)はかる。
2. つりあう。対称
3. (同等のものということから)~と呼ぶ。
なるほど、私の名前は私のことを指す。
釣り合うという意味が本来の字義で、名前に類する意味の方が派生だとわかった。
さて、しかし、この「称」の字は「称える」とも使う。読みは2種類。「となえる」と「たたえる」である。
となえるとは元来「声に出して言う」という意味だそうだ。
現代では、念仏をとなえる、呪文をとなえる、独立をとなえる(主張する)、など、割と用途が限られた言葉ではないだろうか。
となえるには2種類の漢字が使われる。称える、唱える。
浄土信仰に称名という言葉がある。これは、「南無阿弥陀仏」を口に出して言うことで、称名念仏と言うらしい。
念仏というのは、もともとお釈迦様の姿などを思い浮かべる瞑想修行のひとつだそうで、称名念仏ができたことから、こちらは「観想念仏」と呼んで区別しているらしい。
名前をとなえるだけで極楽に行けるのだから、これは楽ちんだ。称名念仏のお陰でそれまで貴族のものだった仏教は民衆にも浸透していったとかなんとか。
憶測ではあるが、それまでただ単に声に出して言うという意味だったのが、念仏の広がりによって「名を声に出して言う」という意味合いを濃くし、この場合の「となえる」に称の字が当てられるようになったのではなかろうか。
しかし、それは僧侶側の知識であり、民衆にとっては「えらい坊さんに教えてもらったありがたいおまじない」といった程度の認識しかなかったであろうし、それは現代においても同様であり、名を呼ぶことという意味は通常認識していない。
だから普通はあまり称えるとは書かず、唱えると書くのだろう。
さて、残るは「たたえる」である。
これは、戦争などで行われる論功行賞が関係しているのではないだろうか。論功行賞の際には名前を読み上げるわけだが、論功行賞であるからには名を呼ぶことはイコールほめたたえることになる。だから、「たたえる」に称の字を当てることになったのも頷けない話ではない。
とはいえ、やはり憶測である。
言葉というのはあやふやなものだ。ナゼ、と問うても答えの出ることなどきっとないのだが、こうやってつらつらと答えの出ない問いについてアレコレ考えるのも、なかなかオツなものである。