見出し画像

人と虫と

警察を嫌う人は一定数存在する。

よく聞くのが、ネズミとりの話。
直接聞く話としてはこれが圧倒的に多い。
スピード違反と一時停止違反が多い。
取り締まられた人は一様に警察の悪口を言い、自らの違反を正当化する。

「流れに乗らなければかえって危険だ」

「あんなところで一時停止する必要ない」etc...。

その全てはただの逆ギレで、真っ当な意見を聞いた試しがない。

停止線があったら一時停止するという決まりなんだから、止まるべきであろう。

本当に意味が無いのなら、警察に申し出てみてはどうか。なぜあんなところが一時停止になっているのか、と。

ルールを守りもせずに文句だけ言うなどまるで中学生の様ではないか。いや、今日びの中学生の方がまだマシかもしれない。

交通違反取締りについてはこんな声も聞く。

「隠れて見張ってるなんて卑怯だ。」

警察がいない時は違反して、警察がいる時は違反しないということか。

その方が卑怯ではないか。

別に警察の肩を持つわけではない。
知り合いに警察関係の人がいるわけでもない。

警察はクズばかり、などというセリフをよく聞く。

警官がどうしょうもない奴ばかりかどうかは、私は知らない。ほとんど警察と関係を持ったことがないのだから、知りようもない。
逆に、警察はクズばかりなんて言ってる人は、かなりのクズなのではなかろうか。「ばかり」といえるほど多くの関わりがあるとは。
関わりもないのに言ってるのなら、それも割とクズっぽい。

警察は政府の犬だ、などという人もいる。

私の知り合いでもそれを口にする人がいる。
その人はとかく「体制側」というのを嫌う。
わたしからみれば、そんなに不利な立場にあるわけでもない。友人も多く、金にも困らず、独身で身軽。よほど何か手痛い仕打ちを受けたのかと言えばそうでもない。

なぜか規則に従うのが嫌いなのだ。
名前を書く欄があっても別のところに書いたりと、小さなところでも抵抗する。

自由民主党を信用できるかと言えば、全く信用していない。そういう意味では私も反体制派である。信用してないどころか一度も自民党に投票したことはない。
実害を受けているかといえば、受けている。明らかにこの数十年、失策を重ねている。30分もニュースを見てればわかるだろう。その罰は受けなければならないはずなのに、のらりくらり。あれはかなりのクズの集まりだろう。
(まあそれは自民党に限った話ではないだろうし、中には立派な志の人もいるだろうけれども。)

だかしかしである。
このことは交通違反の取り締まりとは全く関係ない。政府と警察の交通課を「体制側」という言葉で一括りにするというのは、あまりに短絡的である。

坊主憎けりゃ袈裟まで、である。飛躍が過ぎる。

いい大人が、割と本気で警察は政府の犬だなどという低次元な言葉を振り回す。
国によってはそうだし、日本においてもそういう側面はあるだろう。しかし、交通課の取り締まりは…

交通違反の取り締まりという小事ではものすごい勢いで体制批判をするのに、選挙という大事になると手のひらを返して体制側に媚びへつらうというのは、いったいどういうことなのだろう。

そこのところがわからない。

確かに交通違反の罰金は痛手である。しかし、それは罰金である以上、それを「実害」とは呼べまい。

それ以上に、安心して暮らせる世の中を突き崩してきた自民党政権の方が、何倍も実害をもたらしているというのに。

いや、本当はわかる。

人間も虫と同じということだ。
ある刺激をプラスかマイナスの刺激として受け取り、それぞれの対応を取るだけだ。

金を取られた→マイナスだ→怒る

ただこれだけ。
本来ならば、というか、取り締まりの狙いとしては、

ルールを破った→罰金を取られた→マイナスだ→なぜこんな事に→ルールを破ったからだ。→次からルールを守ろう。

となるべきところだ。

いや、そんなことはわかっている。そうではなくルールがおかしい、と言い出すことだろう。
もしくは、人の決めた事に何でもかんでも従うなんて、人間の自由意志はどうなるのだ、そういう奴がいるから体制側にいいようにされてしまうのだ、なんて言うかもしれない。そうやって話しがどんどん壮大になってゆく。
だが、それは後付けの言い訳に過ぎない。とにかく金がマイナスでムカつく、金を取った相手にどんな理由を付けてでも怒りをぶつけたい、という虫的反応に過ぎないのだ。

対して政治の失策は直接的にすぐさま私達に影響を与えないことが多いのでその場では気が付きにくい。虫としては、反応のしようがない。
だが、巡り巡って大きな損失を与える。

虫にはバタフライエフェクトなぞ、理解しようもないが、人間だって瞬間瞬間では虫とそう対して変わらない。
気がついたらそれこそいいようにされていた、ということにならないようによくよく見張っていなければならない。

人間であるということは、なぜ、なぜ、と原因を辿る能力を持っているということだ。
こうしたらこうなるだろうと予測する能力を持っているということだ。

この能力を常に意識して使うのか、虫的反応に終始するのか。

私は可能な限り人間でありたい。

いいなと思ったら応援しよう!