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ソニーと日本的経営「MADE IN JAPAN」

ソニー創業者、盛田昭夫さんによる著書。

自身の生い立ち、第二次世界大戦、ソニー創業からヒット商品の開発秘話、世界進出、日本的経営からテクノロジーの進歩まで。
ものすごく幅広いテーマをカバーしながら、全盛期のソニーの急成長を追体験できる長編ドラマのような一冊でした。
各所に盛田さんの哲学が詰まっていて、1回読んだだけでは消化しきれない感覚もありますが、読んで良かったです。

以下、本書から印象に残った箇所を抜粋・コメントしていきます。

井深氏の考えは何か新しい製品を開発することだったが、そのためには会社の財政的基礎を築くのが先決問題であった。たとえば、都心の大部分は焼けて野原になっているから、そうした空き地を借りてミニ・ゴルフ場を開設してはどうかといった意見までとび出したそうだ。
食料のことは誰の頭にもあった。そこで簡単な炊飯器を作ってみようということにグループの意見が一致した。

井深氏は部下とともに真剣に試食をくり返したが、あるときは煮えすぎ、あるときは煮え足りずという具合で、ついにこれを断念した。同じ伝導性の原理を利用したパン焼き装置──パン生地の水分によって木箱の両端につけた金属の間で回路が閉じる──も考えたが、これも結局完成に至らなかった。次は、電気座ぶとんだった。

あのソニーも最初は失敗の繰り返しだった。

敗戦直後の一九四六(昭和二十一)年、われわれは焼け残った東京の白木屋百貨店に急造の工場を作った。一日の仕事が終わると、そこから東京駅まで約一キロの通勤路を歩くわけだが、あたりには建物と言えるものなど何もなかった。わずかに、かつての銭湯の跡に煙突が残り、商店の焼けただれたスチール金庫がごろごろと転がっていた。どっちを向いても、目に入るのは焼けただれた廃物や廃材、荒れ地ばかりであった。

結局、都の南端に近い品川区の御殿山の安い木造のあばら屋に事務所・工場ともに落ちついた。このわが〝新居〟は屋根から雨が漏り、冗談ではなく、雨の日には机の上に傘をさして仕事をするありさまだった。それではあんまりだというので、われわれは工場の中に小さい部屋を作り、それに 樋 付きのトタン屋根まで付けて雨をしのぐことにした。

あのソニーも戦後まもない創業時はボロボロの事務所だった。

進駐軍はNHKを管理下に置いていたので、ミキシング装置その他、放送用の新しい備品を必要としていた。これらはまさに井深氏の得意とする分野だった。彼が放送用の大きなミキシング装置をわが社に作らせてほしいと申し出たところ、責任者のアメリカ将校が、打ち合わせを兼ねてこの無名の工場の経営状態を一目見ようと御殿山のあばら屋にやってきた。そうやってやっと受注した装置が完成し、GHQから一キロ足らずのところにあったNHK本部に届けると、その質の高さに皆が目をみはった。その後、米軍放送や極東空軍から注文がもらえるようになったのも、この最初の仕事を立派にやって信用をかちえたからだと思う。

NHKにミキシング装置を届けに行って称賛を受けながらも、井深氏はそのオフィスの一室にあったアメリカのウィルコックスゲイ社製のテープレコーダーを見のがさなかった。それは彼が目にした最初のテープレコーダーであった。ちょっと手を触れてみただけで、彼の心は決まった。

あの物資不足の時代に、テープの上塗りに使うよい磁気材料を見つけることは不可能に近かった。今思えば、われながら信じられないようなことだが、井深氏と木原と私は、最初のテープを手で作ったのである。

われわれはこのテープレコーダーを五〇台作ったが、その市場は存在しないに等しかった。井深氏も私も、消費行動に関する教育を受けたことはなかったし、実際に消費者向けに製品を作って売った経験もなかった。

機械を回しては人の声を録音し、本人に聞かせてやると、皆大喜びしたり驚いたりした。だれもがこの機械を気に入ってくれた。が、だれ一人買おうという人はいなかった。みんな異口同音に言ったことは、「確かに面白い。だがおもちゃにしては高すぎるよ」であった。ようやくわれわれは、独自の技術を開発しユニークな製品を作るだけでは、事業は成り立たないことを思い知ったのだった。

あのソニーも最初は受託開発から始めて、ふとしたキッカケからテープレコーダーの開発に至り大成功した。

井深氏と私は一九四八年に、「ベル研究所報告」で、同研究所のウィリアム・ショックリー他の手になるある研究報告を読んでいた。以来、この発明についてずっと関心を抱いていた。その後アメリカの新聞その他の出版物に、ベル研究所で発明されたトランジスタと呼ばれるものについての記事が出はじめた。井深氏はこのときの旅行で、このすばらしい発明の特許使用がもうすぐ可能になるらしいことを知ったのである。彼はさっそく計画を練りはじめた。

トランジスタとの出会いがその後のトランジスタラジオの開発につながり、ソニー躍進の原動力に。

はじめて訪れたアメリカという国のスケールに、私ははじめ完全に打ちのめされた。何もかもがあまりに大きく、遠く、広大で、かつ多様だった。こんな国でわが社の製品を売るのは、とうてい無理な話だと思った。私はただ、ただ、圧倒された。好景気に沸くこの国に、足りないものなど何一つ無いような気がした。

フィリップス博士に思いを馳せながら町をぶらついたあと、その工場を訪れたとき、農業国のこんな辺ぴな町に生まれた人間が、このような高度技術を持つ世界的な大企業を設立したことに改めて感銘を覚えた。それと同時に、小国日本のわれわれにも、あるいは同じようなことができるかもしれない、そう私は考えはじめた。もちろんかなわぬ夢とは思ったが、オランダから出した井深氏への手紙に、「フィリップスにできたことなら、われわれにもできるかもしれない」と書いたのを覚えている。

アメリカ視察やオランダでのフィリップス工場の視察から得たものは大きかった。

社名はできるだけ独創的なもので、人目につくようなものがいい。また、短く、同時にローマ字で書ける名前でなければ困る。そしてもう一つ、どこの国でも同じような発音になるものでなければならない。

社内外でいろいろと反対があった。そのころ、カタカナで社名を書いているような会社はなく、「ソニー株式会社」では名刺に書いても重みがない、せめて「ソニー電子工業株式会社」にしたらといった意見も出た。私は、今は電子工業だが将来は何を作るかわからないから、ソニー株式会社でいいではないかと主張し、結局そう決まった。

事業が発展するにつれて、海外市場を視野に入れなければ、井深氏や私が想い描いているような会社にすることはできない、と強く感じるようになった。われわれとしては、日本の製品は品質が悪いという外国での評判をどうしても変えたかったのだが、高品質で高価な製品を売るためには、購買力のある市場、すなわち経済力のある文明国を選ぶ必要があった。

「ソニー」は当時としては斬新で前例のない社名だったが、相当なこだわりを持って決めたものだった。そして海外展開への想いは大きかった。

私は、はじめてテープレコーダーを売り歩いたときの経験から、販売とは一種のコミュニケーションだという結論に到達した。日本のこれまでの流通システムでは、生産者が消費者と直接ふれあうことはできない。コミュニケーションなどほとんど不可能といっていい。商品が小売店に届くまでには、一次、二次、ときには三次といったように、何段階もの卸売業の手を経なければならない。メーカーと最終ユーザーとの間には、中間業者が幾重にも介在しているのである。この流通システムには、働き口を増やすという社会的効果のあることは認めるが、余計な費用がかかるし、非能率なことこのうえない。

わが社としてはうちの製品がどれほど便利なものかということを消費者にわかってもらわなければならなかった。そのためには、独自の販売ルートが必要だと思った。

この発想からこの後、ニューヨークにソニー製品のショーケース(直販ショップ)を開く。今で言うApple Store。盛田さんは製品開発を深く理解しながら販売とマーケティングにも精通していた。

わが社のポリシーは、消費者がどんな製品を望んでいるかを調査して、それに合わせて製品を作るのではなく、新しい製品を作ることによって彼らをリードすることにある。消費者はどんな製品が技術的に可能かを知らないが、われわれはそれを知っている。だからわれわれは、市場調査などにはあまり労力を費やさず、新しい製品とその用途についてのあらゆる可能性を検討し、消費者とのコミュニケーションを通してそのことを教え、市場を開拓していくことを考えている。

私はこのすばらしい新製品に情熱を燃やしていたが、販売部門の人たちは一向に熱意を見せず、これは売れそうもないと言う。皆が興味を持たない製品に一人で夢中になっている自分が少しばかり滑稽に思えてきたが、製品の将来性を確信していたので、この企画の責任は私がいっさい引き受けると言明した。絶対に後悔するはずはないと思っていた。案の定、このアイデアは当たって、「ウォークマン」は最初から大変な売れ行きを示した。

ちょっと話はそれるが、ここで言っておきたいのは、あのときどんなに市場調査をしても、そこからは「ウォークマン」のアイデアは出なかっただろうということだ。ましてや、同じような製品が続出するような大成功になろうとは……。しかも、このちっぽけな製品が全世界の何百万、何千万という人間の音楽の聴き方を実際に変えてしまったのだ。

ソニーの哲学が一番よく表れている製品がウォークマン。自分も中高生の時にはお世話になった。

うれしいことに、飛びつきたいような契約の申し出がいくつかあった。しかし私は、用心して大儲けのチャンスだと思われる商談も一度ならず断った。ブローバ社はこのラジオが大いに気に入り、仕入れ部長は、「絶対にいただきましょう。一〇万個注文します」と言い放った。一〇万個! 私は肝をつぶした。信じられないような注文だった。わが社の生産能力の数倍ではないか! 細かいことを話しているあいだに、私はす早く計算した。そのうち彼は、一つ条件があると言い出した。その条件とは、このトランジスタラジオにブローバ社の商標をつけてほしいというものだった。  途端に私の興奮はさめた。わが社は決して他社の下請けメーカーにだけはなるまい、と私は心に誓っていた。

どれだけ大きな契約金額でもOEMでの製品供給の提案は断っていた。それほどソニーのブランド構築に盛田さんは心血を注いでいた。

私はアメリカ人の生活のリズムを吸収しようと努めたが、次第にある考えが頭をもたげはじめた。アメリカ人の生活がどんなものかをほんとうに理解し、この巨大なアメリカの市場で成功しようと思うなら、アメリカに会社を設立するだけでは不十分である。家族共々アメリカに引っ越して、実際にアメリカの生活を経験しなければだめだと考えるようになった。

私自身も子供たちの教育を通じて、多くのことを学んだ。なかでも重要なのは、島国育ちの日本人が異文化に触れることによって、自分は日本人であり、世界の少数民族であるという自覚を持つようになることだ。自分の日本的な部分を評価する一方で、自分が世界に適合していかなければならず、その逆は成立しないことを理解するのである。

USでの挑戦と子供の教育について盛田さんの哲学が表れている。

経営者は株主に十分な利益を還元すべきではあるが、自分の雇い入れた人びと、自分の〝同僚〟をも大切にしなければならない。彼らは会社の原動力であり、経営者はその働きに十分報いるべきである。株主と社員は同列であるべきなのだ。

もしわれわれが先人たちとまったく同じことしかしないならば、世の中の進歩は望み得ない。私は社員に常に言っている。上司の言うことを、ただ 鵜呑みにするなと。「指図を待っていないで、積極的にやりたまえ」と。管理職にも、それが部下の能力と独創性を引き出す大切な方法だと言っている。

経営とは、その時々の四半期の収支決算だけでは判断し得ないものだということである。四半期の収支決算では経営者がうまくやっているように見えても、同時に彼らは、将来に向けての投資をしぶって会社に損害を与えているかもしれないのだ。私の考えでは、経営者の手腕は、その人がいかに大勢の人間を組織し、そこからいかに個々人の最高の能力を引き出し、それを調和のとれた一つの力に結集し得るかで測られるべきだと思う。これこそ経営というものだ。

盛田さんの経営哲学。

良いアイデアを得たり、すばらしい発明をしても、なおかつ、バスに乗りおくれることもある。従って製品企画に独創性が求められることになる。良い製品ができたら、次はマーケティングにも独創性が必要となる。テクノロジー、製品企画、マーケティングの三つの分野に独創性が発揮されてはじめて、消費者は新技術の恩恵に浴し得るのである。

ソニーでは研究者たちにもある期間営業の経験をさせている。たとえ科学者であっても、自分の会社が激しい競争の渦中にあることを知るために営業の最前線に立った経験を持つことが必要だと私は考えている。新卒の新入社員は研修の一環として、一カ月間、事務系の人は工場で訓練を受け、技術畑の人はソニーの販売店やデパートでセールスマンとしてわが社の製品を売る経験をさせている。

言いたいのは、単にユニークな製品を作りだすだけでは、そして特にそれでよしとしてしまっては、本当のインダストリーとしての成功は達成できないということである。発明発見は大切なものである。しかし忘れてはならないことは、それをどうビジネスに結びつけていくかということだ。それには常に製品を鍛え、より完全なものにしていく努力、市場の動きを見きわめて、本当に適した製品企画を続けていなければならない。

盛田さんはテクノロジー・製品・販売の3つの交差点に立ちそれぞれに深く精通していたのだと感じた。

ソニーと盛田さんの成功について印象に残ったのは以下

  • かなり裕福な家庭に育ったもののゼロから挑戦するチャレンジ精神

  • 新しい技術を応用して独創的な製品を作り、ユースケースを提案することで市場を作る

  • 最先端の事例や新しい技術にアンテナをはり適用先を妄想する

  • ソニーというブランドの構築を大切にする

  • テクノロジー・製品・販売の交差点に居続ける

  • 移住までして覚悟を決めていた海外進出

  • 社員と人を大切にする日本的な経営


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