私について

私は、IQ64の軽度の知的障害持ちの26歳。
現在、とある会社の障害者雇用として、居酒屋の仕込みバイトをしている。


家族構成、母、父、祖母、弟が2人、私


小さい頃から、泣き虫だった。
今は人見知りしないですが、小さい頃は、人見知りが激しく、他人を目にすると大泣き。泣き虫な子供だった。何かあるとすぐ、飴やチョコをねだり、
食いしん坊に育った。

幼稚園の時、集団行動が苦手で、周りとズレた行動をしていた。友達も、居たが、関係が難しく、よく喧嘩をしていた。

小学生の時、凄く仲良い友達が出来た。(今は疎遠)
小2で両親が離婚し、母親側で育った。(父は近くに住んでおり、たまに遊びに行ったりしていた。)

指人形を並べる遊びが好きだった。
よくコンビニやスーパーのお菓子売り場にある、
ア〇パンマンやポ〇モンの指人形を収集し、只管畳部屋の隅から隅まで並べて妄想して遊んでた。

学校行く前は、よく、お〇スタや、し〇じろうなどの朝番組を見ていた。アーケードのカードゲームもやっていたし、その辺は普通の女の子と同じような趣味だった。弟が、私のランドセルの中にゲーム機を入れてそれに気づかず学校へ持って行ってしまい、後には、私も仕返しとして弟のランドセルにゲームソフトを入れるという仕返しをしていた。(笑)

小3の時、1番仲良い友達が初恋をして「〇〇くんのことが好きなの」と言っていた。
私も釣られて「私は〇〇くんかな〜」と言っていた。

小4の時、1番仲良い友達と1年生ぶりに同じクラスになり、よく喧嘩をしたり好きな人をバラし合いをしていた。しつこいと言われたこともある(笑)ところが、先輩や後輩たちともトラブルがあり、ある年上の女の子たちに通りすがりに蹴られたり、抓られたりした。〇ねとも言われた。

小5の時、とてつもない男子たちと同じクラスになった。ラ〇ラ〇ルーや、〇ねなどの悪口が尋常じゃないくらい流行った。クラスでも問題になり、先生と言わない約束をしている男子もいた。
ところで、私はどうだったかと言うと、男子によく蹴られて痣を作り、家に帰って親に、「ここどうしたの?」と言われて、「〇〇くんに蹴られた」と言っていた。先生にも報告したら、その男の子は、先生の前では真面目ぶって嘘ついて、「やってないです」と言っていた。私は腹が立って、蹴り返した。私が悪いことになった。

小6の時、日光修学旅行が終わった後、親の再婚で群馬に引っ越した。群馬の小学校に転校した。母親が再婚してからは色々と神奈川で出来なかったことや、不思議な体験を沢山した。今でも夢で蘇ってくる。

義理のお父さんが運転上手で、運転をして
遠いところまでドライブに連れて行ってくれた。私が後ろの車のシートで弟とよく喧嘩をし、
車から降ろして家帰らせないとか言われた。

中1の時、とにかく男子癖が酷かった。男子の似顔絵を無断で描いてよく嫌がられていた。文化祭ではmy own road を歌った。

中2の時、田辺くんという男の子にしつこくストーカー(家までは言ってない)をしていた。東京校外学習の時、田辺くんという男の子と同じ班になった。嬉しかった。席隣だった。好きになった。文化祭では、あなたへを歌った。義理の弟が産まれた。

中3の時、受験のストレスなのか、精神的に情緒不安定だった、不特定多数の男子ともトラブルがあった。文化祭で走る川を歌った次の週、急に死にたくなって、教室のベランダから飛び降りようとしたが、複数の先生方たちに止められた。その後母親が学校に呼び出され、母親の車で帰宅した。その後は精神科尽くしだった。義理のお父さんに「私高校なんて行かない!中卒でいい!働く!」と言ったら、「高校行かないなら家追い出す」と言われた。母にも、「養護学校は、高校の資格取れない、通信や定時なら高校の資格取れるからせめて高校だけは行きなさい!」と言われた。こんな時期なのに親の都合でまた転校し、横須賀に戻り、野比中学校を卒業した。
母親に連れられてどの精神科でwaisを受けてもグレーゾーン(境界知能)で、母親からは、「普通の人として生きなさい」と言われた。

高校、
義理のお父さんの影響で、再び群馬に戻り、
通信制の高校に進学した。
高2からは、マクドナルドでアルバイトをした。レジは一切やらず、厨房でハンバーガーを作っていた。イニシエーター(バンズをトースターに入れる作業)をやることが多かった。

高校を卒業し、母親は、義理のお父さんとも離婚し、バツ2になり、再び横須賀に戻ってきた。
職業訓練校の料理コースへ進んだ。
特に資格も取らず、フリーターに。
どこのバイトも長く続かず、派遣をしたり、クビになり続け、サポステにも行っていた。

20歳の時、再び精神科へ
成人用のwaisを受けた結果、
「IQ64の軽度知的障害」と診断された。
しばらくはデイケアに通っていた。
デイケアで色んな人がいて交流した。
トラブルもあった。私がグイグイ行って避けられたこともある。
私は自分が「この人いいな」と思うと突っ走ってグイグイ行ってしまう癖があると気づいた。
でも一つ偶然な事は、デイケアにたまたま同じ幼稚園だった子がいた事。
向こうもうろ覚えだったけど私から話しかけて気づいてくれた。

そして、ステップアップの為に、就労移行支援へ、
コロナ禍で、まだ出来たばかりの新しい施設でしたので、最初のうちは、利用者が私1人だった。
先生はとても優しく、厳しいことも教えてくれた。
その就労移行支援が放課後等デイサービスと合併していて、沢山の系列で営んでいました。
なので、週に一度、放課後等デイサービスの先生の実習をさせてもらった。
子供は意外と好きですので、とても可愛かった。
ところが、放課後等デイサービスは小学1年生から高校3年生までの生徒さんが在籍してますので、中学生くらいの子からは、自分のスマホを持つ時代でもあり、私は、先生という立場を忘れてしまい、LINEや、SNSを交換してしまった。先生に注意された。先生と生徒が連絡先を交換するのはおかしいと。
それはそうだ。私は理性を失っていた。
そこで学んだ。コツコツ就労移行支援で小さい事から学び、沢山の距離感やトラブルと向き合ってきた。
就労移行支援を終え、障害者雇用として製菓工場で一年ほど働いていたが、一緒に働いている部署の人たちと沢山トラブルがあり、解雇されてしまった。
その後は、A型作業所、B型作業所の体験に行ったり、以前お世話になっていた、派遣会社にも顔出したりもした。定期的に通ったのは、デジタルイラストを描くB型作業所だ。4ヶ月ほど通った。B型作業所は給料ではなくて、工賃なので、週6通ってもたったの2万5000しか貰えない。
そして今、障害者雇用として、別の会社からの紹介で、イタリアン居酒屋の営業前の仕込みバイトをしている。2024年8月12日から2024年11月30日までグループホームいずみの郷もくれんに入っていた。
グループホームで職員さんとトラブルがあり退居し、今は同棲している。

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