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年表を眺めながら#5「その見え方でOKか?」

2019

人は見たいものしか見ない、という「認知バイアス」。
網膜はすべてを捉えているはずなのに、意識したもの以外は脳が認識しない。通勤途中にある建物がある日突然なくなったとき、そこに何が建っていたのか思い出せないあの感じ。

『勉強の哲学』を読んでいたら、「言語的なVR」という言葉に出会った。ヘッドセットを装着しなくても、人は言語で世界を認識している。その人がどんな言葉遣いに馴染んでいるかによって、その人に見える世界は変わってくる。

私たち人間は、(物質的)現実そのものを生きてはいません。言語というフィルターをつねに通している。というか、「言語によって構築された現実」を生きている。あるいは、次のように言い換えられるでしょう。人間は「言語的なヴァーチャル・リアリティ(VR)」を生きている。(千葉雅也『勉強の哲学』)


1999

映画『マトリックス』(1999年公開)には、VRを見るだけの一生が描かれている。
人は現実問題を直視するよりも、現実問題を直視しないフィクションを好む傾向がある。フィクションなら、主人公は常にピュアで、悪の根源と戦える。VRを見るだけで終える一生は、現実がツラすぎると感じるときには、魅力的にうつるかもしれない。

1905

日露戦争が終わり、日本はポーツマス条約に調印した。戦争を続けるよりは、満州の利権を獲得できる条約に調印しようという可能な限りの最善策。しかし国民の意識は政府と違って、臥薪嘗胆の結果として得られる対価の少なさに憤慨していた。政府レベルでは最善策の条約締結も、国民レベルでは不満で、日比谷焼き討ち事件という暴動が起きた。

政府が見ていた現実と、国民が見ていた現実が食い違っていたからこそ、こういう暴動が起きてしまう。当時の国民が国際情勢を把握するには、新聞を読むか、情報通から情報を仕入れるしかなかった。新聞の報じ方や国民のリテラシーだけに問題があるのではなく、国民に東アジア情勢の現実を伝えることを躊躇した政府にも暴動の要因はあったと思う。

2019

自分の認識している現実以外に、別の現実がある。同じような言葉遣いで現実を見ている人には話が通じやすい。千葉雅也はそれを「ノリ」と呼ぶ。そうやって人は仲間と集まり、ノリで言葉をやりとりしながら、自分たちの現実こそが唯一の現実なのだという自信を深めていく。

でも、いま認識している「その現実」で大丈夫なのだろうか?
と、あらゆるノリに乗り切れないぼくは思う。日比谷焼き討ち事件を起こした人は「日本」が直面していた現実をわかっていなかった。でも彼らと比べて、自分が感じている現実は、どれだけ広い範囲に目が行き届いたものなのだろう?

認識方法は、勉強や経験によって変えることができる。ひとつの知識は時に、人の認識を歪める。だからこそ勘違いで悲惨なことが起きる。自分の「認識」を疑いながら、認識の精度を少しでも高めていくにはどうしたら良いかを、いつも探している。

ホントは800字でまとめたいのに1200字を超えてしまう。
削る難しさを感じます。

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