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埼玉に受け継がれた江戸の園芸文化 大宮盆栽村(其の一)
埼玉県南部にある大宮(現さいたま市大宮区周辺)は、慶長6(1601)年江戸幕府によって整備された街道「中山道」の宿場町として栄えた商業の街である。街道は上方の京都と東国を結ぶ東山道として物流や人の移動が活発であった。文久元(1861)年に孝明天皇の妹・和宮が将軍に嫁ぐため総勢3万人ともいわれる大行列が滞在したり、慶応4(1868)年には鳥羽・伏見の戦いを終えた官軍が、錦の御旗を打ち立てて大宮宿を通過したという記録もある(註1)。近年は新幹線の開業や駅前の再開発も進行中で、大宮は今も発展を続ける街であるといえるだろう。一方で大宮には公立文化施設としては珍しい「盆栽美術館」がある。施設の周辺は盆栽町という地名で、約100年前に開村した盆栽村という集落がルーツである。現在、盆栽村には5つの盆栽園が現存し、江戸時代から続く盆栽の伝統を受け継いでいる。なぜ、大宮に盆栽の拠点があるのだろうか。
大宮盆栽村のルーツ
日本には古より貴族や僧侶の間で盆栽を愛でる風習があった。平安時代後期には『春日権現験記』の藤原俊盛の屋敷の中で盆栽が描かれ、同じ時期、京都の本願寺の僧侶覚如の一生を語る『慕帰絵詞』にも多くの鉢が描かれていることが確認できた(註2)。鎌倉時代以降も武家の間で盆栽は愛好され続ける。江戸時代になると武家屋敷の大名庭園において、盆栽が多く育成されている様子が描かれた庭図が残されている。このことから盆栽は少なくとも平安時代から上流階級の人々の間で愛好され、江戸後期までに多様な種類の鉢植えされた植物が培養されていたことがわかった。江戸から大正にかけて鉢植えの手入れ需要にこたえる為、現在の東京都文京区千駄木の団子坂付近には多くの盆栽園が店を構えていたようである。
では、江戸の武家屋敷の庭園の手入れをしていた盆栽園は、なぜ大宮へ拠点を移したのであろうか。記録によると明治時代の東京は工業化・宅地化によって自然が失われ、盆栽の育成に必要な広い土地や良質の土や水が不足する事態となり盆栽園主を悩ませていたらしい。そして、大正12(1923)年の関東大震災によって盆栽園が被災したことをきっかけに、一部の盆栽業者は郊外に新天地を探すこととなった。
大正13(1924)年の埼玉県の本郷・土呂地域(現盆栽町)は、赤松林や草木が生茂る未開拓の土地であった。中心地への交通手段は、原市からの乗合自動車が日に数回通るのみであったが、関東ローム層の赤土と良質な水がとれる自然資源の残る地域であったので盆栽園移転の候補地として白羽の矢がたった(註3)。また、当時国鉄の東北本線が通っており盆栽を運ぶのに交通の便が良く、大宮は盆栽の育成と移動に適した土地だったのである。
其の二に続く
註1 馬橋隆二 編『漫画でみる大宮100年』、北沢楽天顕彰会、1985年
註2 田口文哉編『<盆栽>の物語 古代から現代までー盆栽のたどった歴史』、さいたま市大宮盆栽美術館、2014年
註3 野村路子編『盆栽村・開村80年記念誌』、大宮盆栽組合、2002年