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私は危険思想を持っているという話
サエトミユウの「オールラウンダーズ!! 転生したら幼女でした。家に居づらいのでおっさんと冒険します(web版)」を見ました。
ゴキブリが出てくるダンジョンで、主人公が恐怖のあまり泣き出す場面があります。
主人公がゴキブリに囲まれる絵面のひどさと、パニックになるほど忌避されるゴキブリに同情しました。
ゴキブリを殺した
今日、新しい部屋に引っ越してきてから初めてゴキブリが出ました。もちろん殺しました。
素手は嫌だったし、殴れそうな物は使用中しかなかったのでキッチンペーパーです。紙なんてちょっと薄い気がしますがしかたありません。
ハエ叩きが一番使いやすいんですが、クモとアリ以外を見たことがなかったので、まだ買っていませんでした。
クモは正確には虫ではないらしんですが、私には同位置にいるので、アリやゴキブリと一緒にします。
人類の天敵ともいわれるゴキブリですが、私個人はそこまで嫌悪はしていません。
弟妹がゴキブリを見てパニックになったり、泣き出したりするので、苦手な人もいるのは知っています。
害虫なので家の中で見かければ殺しますが、私は外なら何とも思いません。
いえ、虫は全般的に造形が嫌いなので、ゴキブリもアリもクモも、セミもハエも等しく気持ち悪いなとは思っています。
自分で描いといてなんですが、イラストも気持ち悪かったし、気持ち悪いです。大事なことなので繰り返させていただきました。
被害者意識を持ったら加害者かもしれないと疑う
夢の中で人を殺したりすると、私は必要があれば人殺しができる人間なんだなと思います。
実際、理由づけさえできれば暴力を振るってもいいという価値観を持っていたりいなかったり。
この価値観は、最近戦争を起こしたとある国の言い訳だったり、いじめをする人がよく利用する建前のもとになっています。
つまり危険思想なんですよね。暴力を正当化する人はだいたい自分が被害者で正義はコチラ側にあると考えます。
DVなどは、加害者が正気を保つための手段として暴力を振るっているようにも見えるので、一概にはいえませんが。
我ながら危ないヤツだと自覚しているので、暴力はなるべく避ける方向で考えるようにしています。
でも、世の中には言葉の通じない人が一定数いて、そういう人と相対したときは、手段を選ぶほど問題解決が遠のくし、やっぱり暴力が一番有効だとも思ってしまいます。
石動なつめの「馬小屋暮らしのご令嬢」で、主人公が人間は危険種と同等だと言っていたのにすごく共感しました。
もちろん、全ての人間がそうではないとも知っています。判断は段階的に、できるなら他者も巻き込んで客観的に行うのが無難です。
危険思想を持っているからこそ、他の可能性を考えず、思い込みで攻撃するのが最も危険なんですよね。
一方で虫を殺すとき、私は心臓がギュッと握り締められたような不快感を感じます。
その不快感が気持ち悪くて、害虫への嫌悪感が一層高まっていくんですが、殺しを忌避する自分がいることに安堵もできるんですよ。
夢の中では、殺さなければ殺られる状況なので躊躇できません。
しかし、現実で殺虫に対する自分の反応を見ると、ある程度の良心はあるんだと思えます。
私は危ない人
夢と現実は違うし、虫と人間も、殺しと暴力も異なるものだと思うかもしれません。
でもね、荒唐無稽な夢の中であれ実際に生きている現実であれ私は私なんですよ。条件さえ合えば同じ判断をする可能性があるわけです。
また、私は他者と比べると人間優位の思想は低めです。
ないわけではありません。人間の中で生きている以上、私も人間が一番偉いと思っています。
だけど、命に人間も虫も動物も植物も違いはないという考えも持っています。
虫だって人間と同じように一生懸命だから、外で見かけたときはなんとも思わないんですよね。
また、害虫であるゴキブリやアリは殺しますが、益虫であるクモは殺しません。
殺虫の判断は、家に侵入したかどうかではなく、私のテリトリーを犯すか否かです。
食品を荒らしたり、体を噛んだりされると共存できません。
私は、殺しを暴力の最終形態だと位置付けています。
暴力にはいろんな定義がありますが、単純に殴ったり犯罪をすることだけが暴力ではありません。
私は悪意や害意も持ったり、命を殺すことも当てはまると思うんですよ。
最近、悩んでいる批判も暴力だと考えています。
私の場合は感想が批判的になりがちで悩んでいますが、たとえばSNSの炎上による自殺などは有名でわかりやすいでしょうか。
私にとって、批判そのものは感想でしかありません。でも、受け手を不快にさせたその先には命の危険があります。
ただでさえ危険思想を持っている自覚があるのに、批判は感想だからと肯定するのは危ないと思うんですよね。
そもそも私はなぜ批判という感想を持つのかを突き詰めていくと、必ず精神の歪みに行き着きます。
安易な批判は、自己否定や自己嫌悪を他者に押し付けかねません。
自己否定や自己嫌悪は、害意や悪意にも繋がりやすいです。
やっぱり批判は暴力的だし、人間だけに通用する凶器にも思うんですよね。
ただ、芸術家など表現者の中には、批判を娯楽にして見せたりしている人もいて、すごいなと思います。
命を脅かす危機感と建設的に考えるための危機意識は混同されがちですが、終着点がまったく違うんですよね。
批判を批判で終わらせず、ひとつの作品にしてしまうのは作り手として憧れます。
善人になりたい
この記事にオチはありません。ただ、私は自分が危ない人間だと自覚しているというだけの話です。
生活の中で、自分の凶暴性を認識するたびに、善人にはなれないなと思います。
ホモサピエンスはチンパンジーの凶暴性を遺伝し、ネアンデルタール人など他のヒトたちを滅ぼしたという説があるそうです。
他者には失礼だと思いつつ、自分のことを振り返ると否定できないなと感じてしまいますね。
一方で、自分を悪人だと思って生きようとすると、精神的にものすごく追い詰められるものがありました。
性善説とか性悪説なんてあるけど、案外根っからの善悪というのはないのかもしれません。
私は善人ではないけれど、善人になりたいなと思うくらいが丁度いいようです。善人になる努力をするのが一番楽だったんですよ。
善人になる努力とは、性悪説ではないのかとも思わないわけではありません。
でも、自分の未熟な部分を肯定できないのは人間の弱さであると同時に、強さでもあると思うんですよね。
私は危険思想を持っているけど、危ない人になりたいのではありません。
しかし、いかなる理由であれ暴力は暴力です。
自分に正義があれば肯定していいというのは、悪人となることを許容できない裏返しでもあるわけですよ。
だから人を害す前に、悪への不快さを正しく利用できるようになれば、それは強さになるんじゃないかと考えました。
私は持っている危険思想を利用して、自分の理想に近づける人になりたいです。
努力というよりは、向き合うというほうが正確でしょうか。
反射的に考えることが危ないことなので、なかなかに難しいんですが。