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【自分史】保育園と檻

 私の記憶にある保育園は、気が滅入りそうな薄暗い場所でした。

 壁一面に並んだ棚は塗料が剥げ、壁を飾る厚紙はぼろぼろ、窓を囲う木の格子は痛み、床がギシギシ鳴きます。

 日差しの眩しさに外を見れば、鮮やかに色づく世界が見えました。それが羨ましくて、なぜ自分はここにいるのだろうと思うのです。

保育園という名の大きな檻

 小さな子どもほど、実は感情のコントロールを知っているのではないか、と思う時があります。

 なぜなら私はこの時の自分が一番、感情を上手に使えていたように見えるからです。

 住んでいたアパートから徒歩5分。私の通っていた保育園がありました。

 世間はまだバブルの中です。無認可の保育園は高い、と言いながら母は私たちを通わせていました。

 社会に触れる経験は早いほうがいいとの考えからだったそうです。

 バブル崩壊後の不況で潰れてしまったのか、市町村合併に伴って移転したのか、通っていた保育園は今見当たりません。

 保育園に着くと私は、だいたいの子どもたちと同じように、それはそれは泣いて嫌がりました。

 最初は、母と離れることが嫌だからという理由からだった気がします。あまり覚えていません。

 やがて保育園に行くと動物園の動物のような、檻に閉じ込められる気分になっていきました。保育園側からしたら、仕方がないと今なら分かります。

 そこには園児たちを外に出してあげられるようなお庭はありませんでした。たまに計画を立てては、公園や近くの保育園へと行くくらいしかできなかったのでしょう。たぶん。

 でも、私はそれが嫌だったのです。記憶の中にある保育園は、いつもどこか薄暗い闇を湛えています。

 窓の内側に張り巡らされた木の格子も、大人にしか開けられない出入り口の扉も、怖い先生たちも全てが私を檻の中に閉じ込めているように感じました。

 保育園に着いたらギャン泣きし、暴れて抵抗し、母が消えるまで格子にぴったり張り付き、「お母さん! お母さん! 」と叫んではグズグズと鼻を鳴らしていました。

 母はときおり振り返って、心配そうな素振りを見せますが家に戻る足を止めることはありません。

 とはいえ、帰る時間までそうするかというと、それはそれ、コレはコレです。

 もうこの檻から出られないんだと分かったら、気持ちを切り替え、涙を拭いて友人を探します。

 そして、先ほどまでの大暴れなんてケロッと彼方へ追いやって友人たちと楽しく遊んだのでした。

 だって、ここから出られないとわかっているのに、帰る時間まで鬱々と過ごすなんてつまらないじゃないですか。

保育園の思い出

 私たち園児、特に女の子たちの遊びといえば、セーラームーンごっこです。ちょうど流行っていたんです。

 中でも人気だったのはマーキュリーのアミちゃんでした。いつもみんなで取り合いをしていた気がします。

 屋内なので、鬼ごっこや追いかけっこはできません。遊んでも、狭い室内で逃げられる場所はなく、すぐにつかまってしまいます。

 オモチャは限られているので、早い者勝ち。いつでもとはいきませんでした。必然的に、ごっこ遊びやかくれんぼが多かった覚えがあります。

 また、トイレに行くことも、子どもたちにとっては遊びのひとつでした。複数人で連れションです。まだ小さいので男の子も混じっていました。

 小さな個室の中で、オシッコをかけあって、トイレを汚しては怒られ、服を汚しては怒られました。今、思うと汚い遊びだったなって思います。

 でも、あの頃は、室内に閉じ込められた鬱憤があって、いつでも娯楽に飢えていたんですよね。

 だからこそ外出は私にとって、一大行事でした。みんなで歩いて時間をかけて公園に行ったり、近くの保育園を訪ねてたりしました。

 青空の下、いっぱい動き回った後食べるお弁当は、いつもより格別に美味しかったことを覚えています。

 保育園には、食後、お昼寝の時間がありました。外に出て走り回ってからの食事なら、ほどよく眠たくなったのかもしれません。

 でも、室内で動き回るのなんてたかが知れています。食後でもまだ動き足りない状態で強要されるお昼寝が一番の苦痛でした。

 幼い私は虫が苦手ではありませんでした。今も苦手ではありませんが、当時と違って忌避感はあります。さすがに手掴みはできません。

 眠れなかった私は友人たちと楽しくお話するように、床を這う蟻や、ブンブンと飛び回る蝿で遊んでいました。今考えると我ながらゾッとします。

熱と甘え

 私は定期的に熱を出す体質のようです。子どものときは、保育園でもらった風邪もあって自覚はありませんでした。

 風邪を引いたり熱を出したりすると、保育園を休めます。小さな私にとって、それは嬉しいイベントでした。

 病気になったら布団で大人しくしなくちゃいけないでしょ、なんてツッコミは受け付けません。私はもう、とにかく保育園が嫌いだったのです。

 ちょっとでも熱っぽいなと思ったらすぐに体温計の出番です。37度を超えていたら、喜び勇んで母に報告していました。

 弱ると人恋しくなったり、母がかまってくれて嬉しいとかなるそうですね。でも、私は全くそんなことありませんでした。

 私にとって母は、最初から弱ったときに甘える存在ではなかったのか、自分を守るためにそういう思いを記憶の中から消してしまったのかどうかはわかりません。

 わかるのは、私は彼らを好いてはいても信用はしていなかったということです。

 母はなぜ私が保育園を嫌がるのか聞きませんでした。嫌な保育園を楽しむ方法も一緒に考えてくれませんでした。ただ保育園に連れていったときに、形ばかりの心配そうな顔を作るだけです。

 どこぞの哲学者は人間を考える葦だと言いました。子どもだってひとりの人間なんですよ。言葉が拙いから何もわからないわけではありません。答えられないから何も考えていないわけでもありません。

 未熟と軽んじられれば傷つくし、一方的な関係を築けば逆に利用しようとします。たとえ意識の上では忘れたとしても疑心や不信感はずっと残ります。

 こちらの事情なんてお構いなしで、いつも自分たちの都合ばかり優先する母親にどうして甘えようと思うのでしょうか。

 布団に寝転ぶ私の中には、保育園に行かなくていいと喜ぶ気持ちだけが残っていました。

存在感の薄い妹

 保育園には妹も通っていました。でも、彼女との思い出はあまりありません。年が2つ離れていたこと、年齢ごとに部屋が分けられていたことなどから、保育園で一緒になることがあまりありませんでした。

 一番、記憶に残っているのは、一緒にダンスをしたことでしょうか。みんなで、ひとつの部屋に集まり踊ったことがありました。

 妹と私は二人で手を繋いでクルクル回って遊んだのを覚えています。楽しくなって、だんだん回るスピードが速くなり、ついていけなくなった妹が転んで頭を打ち、大泣きしました。

 その後、先生に見てもらって、出来たタンコブを揉んだり、保冷剤で冷やしたりしました。彼女とこのときの話になるたびに、私は謝ります。妹よ、ごめん。

卒園

 卒園式の日、もう保育園に行かなくていいんだと知った私はそれはもう喜びました。

 別に保育園が楽しくなかったわけではありません。大好きなお友達と一緒に過ごした日々は大切な思い出です。

 いつも泣いているのは始めだけで、楽しげに笑っている時間のほうが長かったでしょう。

 でも、それ以上に私は保育園の中に閉じ込められることが嫌いだったんです。心底嫌いです。最後まで嫌いでした。

 卒園式を行ったのは、近くにある小学校の体育館です。この小学校には、運動会に舞台発表会にと、日曜日限定でたびたびお世話になりました。

 普段着より上質な式服をつけて、先生たちが作ったのか、保護者が作ったのか、胸にコサージュの花を刺した覚えがあります。

 先生たちの誘導にしたがって、移動し、椅子に座り、卒園証書をもらって、記念写真を撮りました。

 家と保育園だけしか知らない小さな世界で、私はもう檻の中に入らなくていいんだと晴れやかな気持ちで帰りました。

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