『歌いたい』-きたりえの視点(1)
きたりえの視点を引用して小説っぽいものを書きました。もし暇があれば読んでみてください。事実に基づいたところもありますが、多くは想像で書いています。ご容赦ください。
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1.2014.5.25『RESET』
里英はその日をとても鮮明に覚えている。
その一瞬一瞬を手にとって、じっくりと眺めることができるんじゃないかというくらい。
その日は日曜日だった。里英たちは、昼の公演が終わり束の間の休憩時間を過ごしていた。いつもと変わらない日常。
そんな中、東北で行われている握手会で事件が起こったという知らせを里英たちは聞いた。
その知らせにまったく現実感は無く、劇場のメンバーは皆、頭に疑問符を浮かべるよりほかなかった。
動揺は次第に波紋のように広がっていった。泣き出す者がいて、動転して隣どうしでしきりに話す者がいて、どうしていいか分からず呆然とする者がいた。
里英は、混乱する若いメンバーたちを取りまとめなければいけない立場だった。しかし、どうしたら良いのか分からなかったし、どうすることもできなかった。
泣きすぎて過呼吸を引き起こしそうなメンバーをなだめている里英に、スタッフが声をかけた。
夜の部の劇場公演をどうするか。
里英とスタッフは廊下の隅で話し合った。
開演の予定時刻は迫っており、それを待っているファンもすでにロビーに集まり始めている。
せっかく集まってもらったファンを無下に追い返すのは忍びない。
しかし、メンバーの状態が不安だ。それに、公演を行うことが果たして適切であるかどうか、里英にもスタッフにも判断がつきかねた。
「きたりえさん」
不意に里英を背後から呼ぶ声があった。
里英が振り向くと、そこに立っていたのは田野優花だった。
小柄な優花は少し顎を上げて里英を見上げていた。
優花の目には涙も戸惑いの色も浮かんでいなかった。
ただ、はしゃぎまわって天真爛漫な笑顔を見せるいつもの優花ではなく、どこか大人びて見えた。
「きたりえさん、公演やりましょう」
優花は静かに言った。
「田野ちゃん。田野ちゃんは大丈夫なの?」
里英の問いに優花はうなずいた。
「私は大丈夫です。他のみんなも、きっと大丈夫」
「でもこの状況で公演をやっていいものかどうか…」
里英は唇を噛んだ。
「きたりえさん」
優花は言った。
「私たちがやるしかないんです」
沈黙が、充満する。
里英の耳に、壁の時計がコツコツと針を刻む音が意識された。
優花はまっすぐ里英を見つめている。里英はその眼差しに強い覚悟を見た。
里英は、体の中を冷気と熱気がせめぎあっているのを感じ、軽く吐き気を覚えた。
里英は深呼吸をして、吐き気を意識の外へ追いやった。
私たちがやるしかない。確かにそうかもしれない。
公演を行うことが果たして正しいことかどうかは分からない。しかしそれは大した問題ではないのかもしれない。
劇場は私たちが守らなければいけない。
「やろう。田野ちゃん」
里英がそう呼びかけると、優花は力強くうなずいた。
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(overture)
overtureが流れる中、里英は舞台袖でスタンバイしていた。里英の目線の先にはステージ上の優花の姿があった。優花は下を向いたまま曲の始まりを待っていた。 どうか、うまくいきますように。里英は心の中で必死に祈った。
公演が始まる。ステージにまばゆいLEDが降り注がれた瞬間から、里英の意識の経路が切り替わる。体はオートマティックに動き、里英本人の感覚としては、アクセルとブレーキのペダルを踏み分け、微調整するだけでよかった。
長年にわたり劇場公演を重ねてきたからこそ身についた感覚だ。
あとはいつも通り、いや、いつも以上の笑顔を見せて観客に安心して楽しんでもらうこと。
公演のステージに立っている間は、少なくとも公演に関すること以外は何も考えなくていい。
里英はそのシンプルさが好きだった。
公演は順調に進んでいった。
開演前まで取り乱していたメンバーたちも、ステージに立ってしまえば自らの役割をしっかりとこなす。
全員の意思はひとつに固まっており、1人ひとりが集中していた。里英はそんなメンバーたちのことを誇らしく思った。
それと同時に、里英の頭に騒動のことがよぎり、遠く離れた地の仲間たちの安全を願った。
メンバーの踊り乱れる髪が、飛び散ってきらめく汗が、ダンスのステップを踏む靴音が、そして目の前の観客一人ひとりの姿が、里英にはいつも以上にはっきりと意識させられた。まるでスローモーション映像のように。
「それでは次が最後の曲になります。聴いてください。『ジグソーパズル48』」
静かなイントロが流れ出す。
『RESET』公演は、序盤は激しいアップテンポな曲が続き、中盤から終盤にかけて次第に落ち着いた曲目へと変化していくセットリストだ。その本編の最後にこの曲が位置づけられている。
AKB48の架空の未来を歌った曲だ。
ピークが過ぎたAKB48の劇場公演を、一人の元ファンが久しぶりに観に行くという歌詞。
その歌詞の中に出てくるAKBメンバーは、客席がまばらでもめげることなく一生懸命歌って踊っているように思える。
里英は、自分もそうでありたい、終わりが来るとしても、前向きにその時を迎えたいと、この演目を行うたびに思う。
ステージからの景色は隅々まで輝いて見える。眼前には満員のファンがいる。グリーンのペンライトが揺れ動いている。
里英は、とても美しい光景だと思った。
同時に怖くもなった。
もしかしたら、こうして劇場公演をやれるのも、これが最後なのかもしれない。
里英は曲がいつまでも終らないことを願った。
それでも、アウトロのピアノの最後の一音が、ステージの終わりを告げた。
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(アンコール)
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続く