『歌いたい』-きたりえの視点(4)

 <ウェブニュース>

 AKB48の大家志津香が盲腸のため10月9日まで入院し、手術を受けることが本日の公式ブログで発表された。総合プロデューサーの秋元康氏はSNSで、

「(大家の入院によって)ミュージックビデオの変更が大変だ」と発信している。

 [2014/10/2 *:**]

4.朝 – 空腹 – 迷い

 デジタル目覚まし時計の音が、里英の意識を呼び起こした。里英は薄暗い部屋の天井を見るともなく見上げた。何かの夢を見ていた気がするが思い出すことができない。

 すぐに再び眠気の波が襲ってきて強制的にまぶたを閉じてしまう。一瞬、里英は自分が誰でここがどこなのか分からなくなる。

『きたりえ、私はね…』

 みなみの言葉がふと頭に浮かびあがる。

 里英は横を向いて身を縮め、ゆっくり息を吸って、吐いた。目覚まし時計の電子音は一定の間隔で鳴り続けている。徐々に記憶が頭に蘇ってくる。スリープ状態にあったPCが再起動するように。

 しばらくして里英は身を起して時計の停止スイッチを押した。

 ベッドのすぐ脇の床に、ホチキスで束ねられた10枚程度の資料が落ちている。寝る前に今日の仕事の最終確認を行っていたのだった。知らぬ間に寝入ってしまったらしい。

 今日は『希望的リフレイン』の、カップリング曲のミュージックビデオ撮影が行われる。里英は資料を拾い上げ、テーブルの上に置いていたファイルブックの一番新しいページに入れて、それをバッグの中にしまった。

 6:30にマネージャーが車で迎えに来る。それまでに身支度を整えなければいけない。意識を奪い取ろうとする眠気をなんとか振り払い、里英は立ち上がった。

 里英がマンションのロビーにエレベーターで降りると、女性マネージャーが出入り口で待っていた(部屋の玄関を出る時に携帯電話の着信音が鳴っていたが里英は出なかった)。

「おはよう。寒いね。体調は問題ない?」

 マネージャーが里英に問いかける。

「大丈夫。おはよう」

 里英はマスクの下からややハスキーな声で短く答えた。

 里英はひざ丈のスカートに薄手のセーター、それとベースボールキャップを被っている。化粧はまだしていない。

「朝食は用意してあるから」

 マネージャーが言った。

「ありがとう」

 里英にとって空腹は、この世でもっとも嫌悪する物事の一つだ(寝起きもその一つだが)。基本的に温和な性格の里英だが、空腹を感じると何もかも集中できなくなり、つまらないことにも神経を尖らせるようになってしまう。何をするにしても、まずはある程度お腹が満たされていなければ始まらない。

 マンションの前に停車しているトヨタ車に2人は乗り込む。里英は後部座席に座り、運転席のマネージャーから紙袋とホットドリンクのはいったカップを受け取る。彼女は礼を言って袋を開ける。

 中身はベーグルサンド2種類とスコーン、そしてカップに入った温かい紅茶である。里英は紅茶を一口飲み、その温かさと苦みの中のほのかな甘みを感じる。

 車が静かに走り始める。カーオーディオからは音楽やラジオは流れていない。

 もう10月に入り、早朝の気温はずいぶん下がっている。ついこの間まで真夏だった気がするが、あの暑さはいったいどこへ消えてしまったのだろうと里英は不思議に思う。

 6月の初めには選抜総選挙があった。あのなんとも形容しがたい気持ちに襲われるイベントが終わると、いつも時間の流れが急に速くなるのを感じる。川の淀みをさまよっていた木の葉が急流に運ばれていくように。

 夏が本番を迎えると毎年恒例となるドームコンサートが催される。また、今年は久々に再開された全国ツアーが行われている。その間を縫うようにめまぐるしく握手会と劇場公演がある。

 気がつけば夏は終わり、秋だ。きっと季節が移り変わっていく空気をほとんど感じることもできないまま冬になってしまうのだろう。たぶん。年末年始は様々な歌番組があって目が回るほど慌ただしい。そしてまた春がやってくる。

 このAKB的リフレインの中で、里英はたまに少し混乱してしまうことがある。あまりにも多くの種類の物事が、唐突に、大量に、濃密に、そして繰り返し起こるせいで、何が今年あったことで、何が去年(もしくはそれ以前)のことだったのか分からなくなってしまう。

 その時々の自分の感情も。

 気がつけば背中を見てきた多くの先輩たちが卒業して、代わりに見慣れないかわいらしい顔の後輩たちがたくさん入ってきた。

 里英は名古屋から上京して、まだメジャーとは言えなかったAKB48に単身飛び込んだ。次第に加速度を増していくAKB48の中で、偉大な先輩たちを必死に追いかけ続けた。とても必死に。

 そして、やがて先輩たちと共に山の頂を見た彼女だからこそ、否が応にも現在と過去を比較してしまい、さみしさを感じてしまうこともある。

 立場は流動的に変わり、心境もそれに伴って変化する。楽しい時間だけがずっと続くことは望めない。そんな諦観のようなものが、里英の心に隙間風を吹かせている気がした。

 だが、そうは言っても物事が変化することは避けられないのだ。里英自身も、AKB48も。

 それでも里英は、このまえ高橋みなみと話したように、できるだけ前向きな気持ちでいることを心掛けている。そして同じチームの仲間たち、そしてAKB48や姉妹グループのために自分にできるかぎりのことをしたいと考えている。

 それは、AKB48の中でさまざまな変遷を経験してきた彼女だからこそできる役割であると里英は感じていた。

 いつの間にかベーグルサンドもスコーンもすべて胃の中に収まってしまったらしく、袋の中には何も残っていない。里英は紙袋を四つ折りにしてゴミ箱に捨てる。紅茶を2口ほど飲んでドアに付いているドリンクホルダーに置く。そして鞄からミュージックビデオの紙資料とスマートフォンを取り出した。

 資料の表紙には『歌いたい』と書かれている。今日撮影するミュージックビデオの曲名だ。里英はイヤホンを耳に入れ、ミュージックプレイヤーの再生ボタンをタップした。

 スローテンポなどこか懐かしく、昔歌ったことのあるような曲が流れてくる。まだレコーディングは行われていないので、いま里英が聴いているのは仮歌だ。里英は目を閉じて曲の端から端まで注意深く聴いて、そのメロディと歌詞を頭にインプットした。

 次は資料を開き、ミュージックビデオのドラマシーンのセリフをざっと眺めた。ミュージックビデオにドラマシーンがあるのは珍しいことではないが、今回はちょっとした舞台を演じる。里英は舞台を経験したことは何度かある。

 しかしAKB48のミュージックビデオの中で舞台を行うというのは今回が初めてだった。

 里英は、他のメンバーのセリフの部分はわずかに唇を動かして読み、彼女自身のパートでは台本から目を離してしっかりとセリフを声に出して言った。割に感情もしっかり込めて。

 里英はすべてのセリフがしっかり頭に入っていることを確認して資料を閉じた。そこで一息つき、窓の外を眺める。里英を乗せた車は信号待ちで停車している。右側の窓から、ビルとビルの間に朝日が昇りつつあるのが見えた。里英は目を細めて、なんとなくそれを眺めていた。

 車が再び走り出すと、里英はスマートフォンを手に取る。SNSに投稿するべき言葉を考えるが、なかなか文字を入力する手が進まない。彼女はあまり朝にSNSで発信するタイプではない。朝は気の利いた言葉が浮かんでこないのだ。

 指が画面の上をさまよっている間に、画面は一定時間を経過してブラックアウトする。

 それでも里英はスマートフォンの液晶画面を長い時間見つめていた。車は静かに走って行く。

(続く)


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