さやみるきー(3)
3.アイドル
秋雨の降りしきる東京の午前。
彩たちNMBのメンバーは、会場の外の東屋でお披露目の段取りを指示されていた。
とにかく元気よく自己紹介すること。
ステージにいる間は常に見られているという感覚を持つこと。
ステージに入る瞬間から、出るところまで見られているから決して気を抜かないように、とのこと。
そして彩は初めの挨拶をする仕事も任されていた。
なんで私なんだろうという疑問はあったが、とにかくセリフを覚えた。大して長くなかったので、まあなんとかなるだろうと思った。
未知の環境の中で、ほとんどの大阪から来た少女たちは委縮しきっていた。
彩はと言うと、確かに自分の鼓動が普段よりも固く速く鳴っていることは感じられたけれども、頭の中はいつも通り冷静であった。
「彩ちゃん、さや姉。緊張するわ。ほんまどうしよ」
年少のメンバーが彩の腕にしがみついて体を揺らした。
「大丈夫や。美瑠ちゃん」
彩は美瑠の頬を軽くつねった。
さや姉ってなんや?と彩は思ったがそこはスルーした。
「どうせ今のうちらにやれることなんてなんも無いんやから、言われたことだけ一生懸命やったらええよ」
しかし美瑠はすでに彩の話を聞いていなかった。
美瑠は遠くの一点を見つめて「あっ!」と言って息を呑んだ。
美瑠は視線の先を指さして言った。
「なあ、あれってもしかして…」
彩は美瑠が指さした方向を見た。
人が1人、こちらの方に歩いてきていた。その人はビニール傘を差していたため顔はよく見えなかったが、女性だった。
黒とピンクのブレザー風の衣装に身を包んだ華奢な体。
その体から伸びるすらっとした白い脚。
ほんの少し猫背気味に体を丸め、雨を気にするそぶり。
彩は10m手前まで彼女が近づいてきた時、それが誰だか分かった。
5m手前まで彼女が来たとき、全てのNMBのメンバーは、息をするのも忘れて彼女を見つめていた。
彼女が醸し出す雰囲気に誰もが圧倒され、身動きをすることすらできなかった。
彼女はそのままNMBメンバーたちの前を通り過ぎようとした。彩たちを気にする様子はまったく見られなかった。
その時、1人のメンバーが声を上げた。
「おはようございます!NMB48です!」
そう言ったのは美優紀だった。
それに続いて他のメンバーたちもおはようございます、と口々に言った。
彼女は、前田敦子は、足を止めて傘から顔を出して微笑んだ。
「あ、おはよう」
そしてそのまま行ってしまった。
前田敦子の姿が見えなくなるまで、誰も何も言葉を発しなかった。
いざ姿が見えなくなると、たった今通り過ぎた本物のアイドルについて少女たちは皆興奮した様子で騒ぎ立てた。
そんな中、彩は、前田敦子が傘から顔を上げた瞬間から今までずっと身震いが止まらなかった。
彩の心は、初めて大海原を前にした時の様に感動し、高鳴っていた。
あれがアイドル?まるでロックスターや。私は今までアイドルというものを勘違いしていた。
あんな人は初めて見た。
彩はそんなようなことを思っていたが、同時に今の自分と今通り過ぎたアイドルとのあまりの「差」に愕然とした。
あんな風にならなあかんのや。
ただ美しく華やかというだけではない。前田敦子には、苦しみや悲しみ、怒りといったあらゆる感情、感覚を魅力へと転化させているような切迫感があった。
あまりに違い過ぎる。
周囲のNMBメンバーが舞い上がって騒いでいる中、彩は自らのちっぽけさを痛感し、立ち尽くしていた。
しかしすぐに、彩は他に2人のメンバーが騒ぐことなく彼女自身と向かい合っていることに気づいた。
1人は美優紀だった。
先ほど真っ先に声を上げた彼女は、その薄いくちびるをまっすぐに結び、片手を胸に当てたまま前田敦子が向かった先をじっと見つめていた。
そしてもう1人は、山田菜々だった。
群れることなく1人佇んでいた彼女と、彩は目が合った。
いつも物静かな菜々だったが、その目はとても雄弁で、焔が熱く燃え滾っていることが彩には分かった。
それに感化されるように彩の心も何か劇的なものが注がれたようで、彩は雨の中を今すぐにでも叫びながら走り出したい衝動に駆られた。
(続く)