他の星から(4)
4.孤独兄弟
迎えの車が来る間、七瀬は家の前の道路から目の前に広がる光景を眺めていた。
いつもと同じ光景だ。しかし、まるでだまし絵を見ているときのような違和感がその中には潜んでいる感じがした。
七瀬と反対側の歩道を、犬を連れた老人が歩いている。朝のこの時間によく見かける老人だ。
その老人が連れている小型犬は、ペット服を着せられている。
七瀬はあれ?っと思った。
その老人はいつもは中型の雑種犬を散歩させていた気がする。七瀬の思い違いでなければ。
七瀬は確信を持てないまま、その老人を見送った。
七瀬は老人が歩いてきた方に視線を戻すと、そこにはこじんまりとしたクリーニング屋が見えた。
そんなところにクリーニング屋があっただろうか。
いつもと同じ光景の中に見慣れないものを見つけてしまったようで、七瀬は妙にそわそわした気持ちになった。
七瀬はふと空を見上げた。
今日は細切れの雲が多いが、その大部分は晴れている。
春の香りがする。長い長い冬がようやく終わろうとしているのだ。今日は比較的暖かく、マフラーを巻かなくてもいいくらいだ。
ストレッチがてら首を回しながら空を見回すと、やはり昨晩と同じように七瀬の真上に月があった。
あまりにも七瀬の真上にあったので、最初は気がつかなかった。
日中の月なので、昨晩の様にはっきりとは見えないが、やはり大きい。昨晩はとても黄色く見えたが、今は全体的に白く、部分的に薄い紫色がかっているように見えた。
なんでこんなに大きいんだろう。
いぶかしむような表情を浮かべた七瀬は、その月の仔細に観察しようとしたが、体をのけ反らせないとうまく見ることができないほど真上にあるので、うまくいかなかった。
諦めて目線を元に戻すと、ちょうど迎えの車がくるところだった。
*
「七瀬、昨日はおつかれさま」
後部座席に七瀬が乗り込むと、橋本奈々未が先に乗っていた。
「ななみん、月が」
「月?」
「昨日の夜、月を見なかった?」
「見てないけど、どうかしたの?」
奈々未は不思議そうに七瀬の顔を見た。
「昨日の夜、すごい大きい月が見えたから」
「そうなんだ。全然気づかなかった」
「今もそれが見えるんだよ」
「どこ?」
奈々未は窓から空を見ようとした。
「たぶんすごい真上にあるからその角度じゃ見えないと思う」
七瀬がそう言うと、奈々未は車窓を開けてそこから顔を出した。
車はすでに走り出している。
「あぶないよ、ななみん」
七瀬が心配して奈々未の肩に手を置きながらそういうと、奈々未は顔を引っ込めた。
「見えない」
奈々未は首を振って言った。
「そう…」
「七瀬にしか見えないのかもね」
「まさか」
七瀬は奈々未の不意の冗談に少し驚いて笑った。
奈々未は普段通りの表情で、少し間を置いてから口を開いた。
「七瀬、ダブルって分かる?」
「ダブル?」
奈々未の突然の質問に、七瀬は少し戸惑った。
「自分の分身のこと。ドイツ語ではドッペルゲンガーともいうけど」
と奈々未が言う。
「それが月と関係あるの?」
もちろんドッペルゲンガーという単語くらい七瀬も知っている。しかしなぜ、奈々未が突然、それを言い出したのか分からなかった。
奈々未はなぜか、ふっと笑みをこぼした。
「別に関係はないけど、世の中には意味の分からないことがたまに起こるんだよ」
奈々未は自分の爪の状態を点検するように触りながらそう言った。
「ある日突然、行ったことのない見知らぬ土地で昔の失くし物が見つかったり、初めて行ったはずの病院で『昔来たことがある』、と言われたり」
「それ、ななみんの話?」
七瀬の問いに奈々未はわずかにうなずいた、ように見えた。
「自分のダブルに会わないようにね」
奈々未は至極真面目な表情で言った。
「自分のダブルに会ってしまうと不吉なことが起こるらしい」
「そうなの?」
「ごくたまに、私たちの想像が及ばないようなことが起こるんだよ。この世界では」
奈々未は顎関節の稼働を点検するように、口を開いたり閉じたり、左右に顎を動かしたりしながら言った。
確かにそうかもしれない、と七瀬は思った。
私が乃木坂に入ったことだって、昔の自分を考えれば想像の及ばないところの現象だ。
そのあと2人は目的地に着くまでは黙ったままであった。
(続く)