他の星から(2)
2.私、起きる。
なぜ私は今、地上200mを超える断崖に立っているのだろう。
七瀬は訳が分からなくなった。
目下には、まるで誰かとても几帳面な人が丁寧に書き上げた精密で広大な絵画のような世界が広がっており、現実感と遠近感を失っていた。
強い風が吹きつけたとき、恐怖が七瀬のつま先からあっという間にせりあがってきて、全身を駆け巡った。
現地の若者たちが七瀬の頭にヘルメットをかぶせる。ベルトで体を固定する。簡単な英語に片言の日本語を織り交ぜて、これから起こることの説明を、繰り返し何度も説明した。挙句の果てに若者の一人が、七瀬の手の甲に油性ペンで落書きをした。スマイルマークのような絵だ。
七瀬はちらと、その凡庸なイラストを見た。七瀬から見るとそのイラストは逆さに描かれていた。
七瀬はため息をついた。
こういう時は素数を数えて落ち着く…ダメだ。素数なんて全然思い浮かばない。
七瀬の頭の中には無秩序な幻想と記憶とがごちゃまぜに、次から次へと飛来し、またどこかへ吹き飛んでいった。
ふと、七瀬は自分の名前を呼ばれるのを聞いた。顔を上げると、安全策の向こう側で絵梨花が呼びかけていた。
絵梨花の透き通った一対の目が、七瀬を見つめていた。その目を見つめ返すと、七瀬はなぜか何も考えることができなくなった。一時的な空白地帯となった七瀬の頭の中にはひとつの想念がポツンと浮かび上がった。
--私は自分でこうなることを望んだのだ。
少なくとも、自分がバンジージャンプを跳んでも構わない、そう自分が無意識のうちに考えていたことに思い当たった。
七瀬の目から涙があふれ出した。恐怖の涙ではない。悲しみの涙でもない。これは言わば、決意の表れのようなものだった。
「私はここで一度死ぬ。そして生まれ変わる」
七瀬は心の中で思った。私は自ら望んでここに立っている。
生まれ変わりたい。自分を変えたい。
「そうか」
七瀬は一つのことに思い当たった。
人は自分のために『自分』を変えることはできない。でも、大切な人たちのためなら、『自分』を変えることはできるんだ。
七瀬はそう思うと、体の内側から力強い何かが湧き上がってくるのが感じられた。
怒りに似た感情。でも怒りではない。喜びにも似ている。
それは、七瀬の体の外には、涙として、嗚咽として発現した。
七瀬はひとしきりむせび泣いた。汗と涙と、鼻水とよだれがいっしょになってこぼれ落ちた。
やがて、涙は止まり、呼吸も深く静かなものになった。
七瀬がゆっくりと顔を上げると、もうすべての音は消えていた。風が七瀬の体を包んでいる。
七瀬は足を一歩前に踏み出した。つま先が空中へとはみ出した。
これ以上先には七瀬を支えるものはもう何もなく、200m先の地面まで何もなかった。
七瀬は目を閉じて最後の一歩を踏み出す。
「なぁちゃん!」
七瀬は落ちる瞬間、絵梨花の声を聞いた気がした。
(続く)