『歌いたい』-きたりえの視点(3)
3.カフェ - たかみなの話
収録を終えて、里英とみなみは2人だけでビル2階のカフェに入った。大きな窓際の2人用のテーブルに向かい合って座った。心なしか先ほどよりは窓の外も明るくなったように見える。雨の勢いは依然として変わらないが。
里英はカフェラテを、みなみはオレンジジュースを注文した。
「あんまり時間はないんだけどね。30分だけ、もう少し話しよう」
みなみが言った。もちろんもう収録用のオレンジ色のジャージは来ていない。ライダースジャケットにシックな色のミニスカート。
「私、あんな風に泣くなんて思わなかった。ああ、オンエアが心配だ…」
里英はため息をついた。
「大丈夫だよ。私はきたりえの本音が聞けてうれしいよ。ファンの人もそう思うだろうし、ファンじゃない人にだって、きっときたりえの気持ちは伝わるよ」
みなみは言った。
そこに注文したカフェラテとオレンジジュースをウェイターが運んできた。
2人はとりあえず飲み物を飲んで一息ついた。
「私べつに全然病んでるとかじゃないんですよ。むしろ最近はかなり前向きだし」
里英は言った。
「うん。見てて伝わってくるよ、そういう感じは」
「自分のことはけっこう割り切って客観的に見れるようになったと思うんですよね。でもその分、よけい人のこととか、全体的なことが心配になるようになったかな」
「大人になったねぇ、北原さんも」
みなみはにやりと笑った。
「みなみちゃんもタメでしょうが」
里英は唇を尖らせる。
「なんかさ、大切なものが見えにくくなってるよね」
ふと、みなみが窓の外を眺めながらつぶやくように言った。
「昔はさ、毎日劇場公演をやって、握手会でファンの人と交流して、毎日全力で走って少しずつ少しずつ上へ昇っていったじゃない」
みなみは懐かしそうに笑みのようなものを口元に浮かべた。
「ライブだって1000人2000人くらいの会場でもとても大きく見えた。ごくたまにテレビ出演とかあると本当にうれしくてさ。本当に精一杯、死に物狂いで頑張ったよね。
そしていつの日か、目標の場所である東京ドームでのコンサートを夢見てさ」
「うん」
里英はうなずいてカフェラテを一口飲んだ。
「もちろん楽しいことばっかじゃなくて大変なこともめちゃくちゃあったけど、そういうのもいま思い返せばなんか懐かしいし、いい経験だったなと思う。青春だね」
「うん。青春」
里英も窓の外を眺めた。雨のしずくが間断なく広葉樹の葉を打ちつけていた。
みなみは窓から目を切って、里英の顔を見た。
「以前は、将来は見えなくても、やるべきことがはっきりと見えていたし今よりもずっとシンプルだった。分かりやすい分、ひとつのことに全力で取り組めたんだと思う。
いまは後輩たちもたくさん増えたさ。でもその子たちに、本当に大切なことを伝えられてないと思うんよね。
いま入ってきた子たちは恵まれすぎているというか。バラエティでも歌番組でも出られる子はけっこうすぐに出られるし、ドームとかスタジアムとかで何万人の前でコンサートするのも当たり前のことになっちゃってる。
AKBに入ったはいいけど、そしたらじゃあ次に何を目指せばいいのか分からないよね、きっと。入ることが目的になっちゃってるのかもしれない。AKBのメンバーになる、という目標が叶っちゃったらもう次の目標が見つけられないのかもしれない」
「まあ、確かにそうかもしれない」
里英は同意した。
「でもそれについてその子たちを責めることはできないな。順番が違えば私がそういう立場だったかもしれないし。
それに今は私だってあんまり人のことは言えないです。何をがんばればいいのか見つけ出せないっていうのは、さっき収録でも言ったように、あります。私個人としては女優としての目標とかはあるけど。
AKBのために、AKBの中でがんばるべきことが、昔はあったのにだんだん見つけ出せなくなってきてる」
里英はストローでラテをかき混ぜた。
「強いて言えば、私の経験を活かして後輩たちの悩みに気づいて聞いてあげるとかくらいですかね。そういう後輩たちがまた新しいAKBを作っていってくれたら私は嬉しいかな」
「偉いよ、北原さん」
みなみは目を細めて笑った。しかしその顔はどことなく切なそうに里英には見えた。
「私はこれから、私ができるかぎり後輩たちに大切なことを教えていきたいと思う」
みなみは言った。
「厳しいこともたくさん言わなきゃいけなくなる。でも、嫌われたって、敬遠されたってもうそれは仕方ないことだと思う。その子のファンの人たちだって私のことをよく思わないかもしれないね。
でももうそんなことは構っていられない。『嫌われる勇気』ってやつかな。
…もうAKBには悠長に構えている時間はないんだよ。やらなければいけないことは、多少の痛みを伴ったって今のうちに絶対しないと、のちのち後悔する」
「みなみちゃん…」
「きたりえにはもちろんきたりえ自身の夢も大切にしてほしいよ。でもきたりえにはまだAKBでやれることはあるよ。AKBがAKBである所以みたいなもの、それが分かってるメンバーは少なくなってる。きたりえは数少ない中の一人だよ。由依と力を合わせてやってほしい」
里英はみなみの言い方に何かただならぬものを感じた。何か言うべきだと思ったが適当な言葉が浮かばなかった。
「きたりえ、私はね」
みなみが言った。
里英はその続きを待った。
が、その続きはいくら待っても発せられなかった。食器が触れ合う音とウェイターの足音だけが聞こえている。
「おっと、そろそろ行かなきゃいけない時間だ。悪いけど先に出るね。じゃあ、また」
みなみは急に思いついたようにそう言って、千円札をテーブルに置いてさっさと出て行った。
里英が腕時計を確かめると、入店してからまだ15分しか経っていなかった。
テーブルの向かいには、全然飲んでないオレンジジュースのグラスがぽつんと置かれていた。
それをぼんやりと見ながら、里英はみなみが言いかけて止めた言葉の続きについて考えた。
雨粒が広葉樹の葉を打ちつけている。
(続く)