『歌いたい』-きたりえの視点(5)

5.うなぎ - しろみ - 緑茶

 撮影場所は都内某所にある劇場だった。里英が車から降りると、ひとまとまりの風が木の葉を散らして駆け抜けていった。日が昇りつつあるとはいえ、やはり寒い。

 入り口には初老の警備員が手を後ろに組んで立っている。里英はおはようございます、とあいさつした。彼も会釈しておはようございます、と返した。

 楽屋は何部屋かに分かれており、それぞれのメンバーにあてがわれていた。

 AKB、SKE、NMB、HKTそれぞれのグループから総勢25人が集まっているのだ。全員が一つの部屋に入るのは窮屈すぎる。

 里英が部屋に入ると、すでに何人かのメンバーがテーブルを囲んで座っており、里英におはよう(おはようございます)と言ってきた。里英もマスクを取って見慣れた顔ぶれにあいさつした。

「里英ちゃんおはよう~」

 倉持明日香が立ち上がって、猫をあやすような甘い声で里英の腕に抱きついてきた。

「久しぶり~。会いたかったよ、うなたま~」

「もっちぃ、久しぶり。私も会いたかったよ」

 里英は、明日香の鼻が彼女の耳にすり寄ってくるのをなんとか首を捻じってかわそうとする。明日香よりも里英の方が少しばかり背が高い。

 里英は嫌がっては見せたものの、明日香の髪の匂いに、なんとなく気持ちが安らぐのを感じた。

 2人は空いている席に座った。そこに高城亜樹もやってきた。

「おはよう、里英ちゃん。のどあめ舐める?」

「あきちゃ、おはよう。ありがたくいただきます」

 里英は微笑んで亜樹の手からレモン味ののどあめを受け取った。

 亜樹は一見おっとりとした性格のようだが、意外と細やかな気配りをしてくれる。

 同じAKB48のメンバーとはいえ、所属するチームが異なると会う機会が限られてくる。里英はチームKに、明日香と亜樹はチームBにそれぞれ属している。会わない時間に積もった話はいくらでもある。

 しばらく、3人で近況報告や他愛のない話をした。主に明日香の飼っているラグドールの“しろみ”(変な名前だ、と里英は思う)の話が多かった。
それから20分ほどのち、スタッフが衣装とメイクの準備をするようにとメンバーに告げた。

「そういえば、しーちゃん参加できなくなっちゃったね」と亜樹が言った。

 2人は化粧台の前に座り、メイクを施されている。

「盲腸だもんね。おとといお見舞いに行ってきたよ」と里英は言った。

「どうだった?しーちゃん元気だった?」

 亜樹はアイラインを引かれているので目を閉じている。

「もう手術も終わって元気そうだったよ。暇だ、暇だってぼやいて漫画ばっかり読んでるみたいだけど」

 里英はふふっと笑って答えた。

「早く良くなるといいなぁ。しーちゃんがいるとね、チームBの楽屋がすごく楽しいの」亜樹は目を開けて鏡越しに里英を見て言った。

「チームBって若い子が多いでしょ。みんなすごく元気で。私と明日香ちゃんはそれをなだめるお姉さんって感じなんだけど、しーちゃんはいつもクールぶってるけど、気が向くと若い子たちと一緒になってふざけたりしてすごいよ。そうすると私も楽しくなっちゃって。しーちゃんのおかげでBがすごく仲良くなれた気がするな。この間のツアーもすごく楽しかったし」

「チームB本当に楽しそうだよね」と里英は言った。

「若い子たちもみんな可愛い子が多いし。あの子が特にかわいいよね」

「だれ?」

「ドラフトの、北海道出身の」

「さやや!川本紗矢ちゃん」

「そう、さややだ!可愛いよね。あんまりAKBっぽくないっていうか。これから人気出そう」

「さややはおとなしそうに見えるけどやる気がすごくあって、誰よりもがんばってるよ。ツアーでも大活躍だし。でもさややだけじゃなくてね、もう一人のドラフトのあえりんとか、あとまだあんまり有名じゃないけどせいちゃんとかね、将来有望な子がたくさんいるよ」

 亜樹が本当に嬉しそうな顔でそういうのを見ると、なぜか里英は少しさびしい気持ちを感じた。

 16歳の時に里英はAKB48に加入した。亜樹も期はひとつ違うが同い年だ。それから現在まで、7年近くが経過している。

 里英にとって、自分の人生の中でこれだけの年月をAKB48の一員として過ごしてきたということが、事実として理解することはできるが、実感はまったく湧かなかった。

 里英はふと、テレビ番組の企画で富士山に登った時のことを思い出した。あれはいつのことだったか、とても昔のことのような気もするし、つい最近のことのようにも思える。あの時は、大島優子がみんなを牽引し、秋元才加が後ろから背中を押してくれていた。その中で、里英は指原莉乃と励ましあって寄り添いながら一歩一歩進み、なんとか頂上にたどり着いた。一方の亜樹は、優子に負けじと張り合ってぐいぐいと登っていた。里英も亜樹も、将来を期待される若手だった頃のことだ。

 今では状況が大きく変わっている。大島優子や秋元才加はすでに卒業している。莉乃は東京から遠く離れた福岡で劇場支配人をやりながらHKT48を取りまとめているし、総選挙では1位に選ばれもした。

 亜樹はしばらくの期間、日本を離れてジャカルタに赴きJKT48として活動していた経験がある。文化の異なる慣れない土地での活動は、肉体的にも精神的にも過酷なものであったはずだ。本人はそれをあまり感じさせることはないが。

 もっと若い時の、亜樹の負けず嫌いは目立たないところに引っ込み、代わりに他人を思いやる優しさが前に出てきたように見える。彼女も見違えるほど精神的に成長し、大人になったのだなぁと里英は実感する。

 自分はどうなのだろう、と鏡の中の自分を見つめ里英は思う。多くのものを得て、さまざまな夢を叶えることができた。それはたくさんの喜びに満ちていたはずだ。それと同じ数だけ、もしくはそれ以上に悔しいことや悲しく辛い出来事も経験した。

 確かに、何も知らない16歳の少女だった時から比べれば、どこかへは歩んできたのだろう。しかし、いま自分が立っている場所がどこなのか、今後どこへ向かおうとしているのか、自分自身が納得できる答えを導き出すことができているだろうか。私をここまで運んできたのは誰の意思なのだろう、私自身の意思だろうか。

 里英は確信を持つことができなかった。

「里英ちゃんどうしたの?おなかでも痛いの?」

 気づいたら亜樹が心配そうに里英の顔を覗き込んでいた。ぼうっと考えに耽ってしまっていたらしい。

「ううん、大丈夫。そろそろ行こっか」

 里英と亜樹は立ち上がってメイクルームを出た。今はとにかく目の前のことをやるしかない。

(続く)

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