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さよなら炒飯!十七皿目

男性二人の会話。三十代だろうか。この会話までは神保町のカレー屋の話をしていた。細かい所は声がくぐもって聞き取れなかった。

「そういや、うちの会社の近くに地図情報制作会社あるだろ」
「うん、結構でかいよね」
「あそこやばいらしい」
「なんで。地図って社会インフラだろ、インフラは強いぜ、俺そこ行きたかったんだよ。簡単にやばくなんないだろ」
「それがな、ネットの大手検索エンジンの地図、あそこが採用されていただろ、それが切られるんだって」
「なんだそれ」
「地図製作の会社が上から目線でエグい値上げの交渉したらしくて」
「あの巨人相手にかよ、身の程知らずだな」
「まあ、それだけじゃなくて、検索エンジンが自前で地図つくってデータを自分のものにしたかったらしいよ」
「俺、就活の時そこ蹴られたからな。メシウマってこれだぜ」
声のトーンは低いが、小ばかにする話は嬉しそうだ。

「これどうする」僕は嶋津に聞く。
金龍飯館の個室を頻繁に借りる。ヤン君は必ずコーヒーや中国茶、そしてお菓子を持って来てくれる。嶋津はノートPCの画面を閉じる。
「いつも仕事、大変だよね、何の仕事しているの」
嶋津はヤン君に答える。
「僕は文章が下手なんだ、それを朔ちゃんに手伝ってもらってるの」
「そうなんだ、文章が下手な経済ジャーナリストも大変だね」
ヤン君は笑いながら杏仁豆腐を置いて行く。
嶋津は杏仁豆腐に手を付けずに話を続けた。
「俺たち今まで現物取引だったから、上がる株しか買えなかった。下落する銘柄に手が出ない。値下がりする株に突っ込むなら信用取引をやらなきゃ。リスクはあるけどな」
現物取引は所持金だけの勝負。そして株が上昇する時しか投資の機会がない。もし買った株が下落し0円になっても、購入した金額が0円になるだけ。五十万でその株を購入し、株価が0円になったら自分の金も0円。五十万を失うだけ。それ以上の損はない。

信用取引は元手の約二倍から三倍の金額を取引ができる。証券会社から借りるのだ。現物取引なら五十万の株が倍の百万になったら五十万の利益。信用取引は手持ちが五十万しかなくても数百万で勝負が出来る。しかし損失も約二倍から三倍。おまけに証券会社から資金を借りているので利息まで付く。
また、信用取引は株価が下落することを予想して「空売り」という手段でも利益を得られる。株価が高い時に「空売り」をする。下落した時にその株を買い戻す。その差額が利益になる。なのでよいタイミングで株が急落すると大きな利益が手に入る。
しかしシャレにならないリスクがある。空売りは株が「下落」する事を前提にしている。問題はその株が落ちずに「上昇」を続けた時だ。「下落」は0円という確実な「底」がある。しかし「上昇」は青天井。空売りの損失も青天井。果てしない損失が広がる。

「買いは家まで、売りは命まで」

現物の買いで大きな損失を出しても「家」を失う程度。しかし空売りでの損失は「命」をも取られる。そんな格言だ。まだある。

「買い物が買い物を呼ぶ」

買い人気が強くなり、相場が上昇すると更に買い注文が増える。それが過熱し更に買いを呼び、相場が熱狂する。こうなると僕たちは終わりだ。
NISAなどで積み立て式の株や投資信託を買っている分にはドルコスト平均法が効き、荒れたマーケットの海でも悠々と進んでいく。
しかし僕らが考えているギャンブル的なプレイスタイルは一瞬で全てが変わる。僕らはほぼゼロから始めるので、僅かな損失を抱えただけでマーケットから追放される。バブルやリーマンショックなどで全財産を失い、負債を抱え自らの命を絶った人の多くは信用取引で途方もない損失を抱えた人達。ど素人の僕らが噂話と言う根拠が薄い材料でマーケットという海に繰り出す。口の中が乾く。高校野球のマウンドに上がるのと訳が違う。
嶋津は僕に言う。
「金龍飯館の噂話に限らず、大抵の噂話は人の失敗が多い。失敗なんだ。その噂話で僕らが落ちると踏んだ会社を空売りしよう。上昇するおいしい話は俺たちが予想できないものが盛られる。失敗の話はそこまで盛られない。人の不幸は蜜の味だけど、それを盛るのは良心の呵責ってやつに触れる。ここの大手町や丸の内の下っ端の奴らは意外と正直者だ。情報としては確実だ」
嶋津は立ち上がって僕に聞いた。
「朔ちゃん、どうする」
僕はしっかりとした返事をしたつもりだったが、声がかすれた
「それで行こう」
嶋津は嬉しそうに僕の肩をひっぱたいた。

嶋津が地図製作会社の裏取りに動く。大手検索エンジンから情報を引き出そうとしたが、百段階認証ぐらいされているかのように固い。手がかりが全く掴めない。しかし地図製作会社周辺からは「ざる」の様に情報が漏れてきた。地図使用料の値上げ交渉、その高飛車な態度。一方、各自動車会社やカーナビゲーションシステムメーカーへの売り込みは不調らしい。
「他の検索はここの地図使っているのか?」 僕が聞く。
「様々。一部この地図製作会社を使ってはいるけど、地図のウィキペディアの様なものがある。GISとか言うのかな。そんなものも採用しているらしい。非公表だけど」
嶋津が声のトーンを落とし、さらに言う。
「でな、役員のパワハラが常態化している。営業に無理な数字を強いて、達成出来なかったら、飲み屋の個室で罵声。飲み屋でやるのは社内だと具合が悪いと」
僕の頭にあのシュレッダーの音が響く。
「嶋津、空売りしよう。役員のパワハラは課長のパワハラとは訳が違う。社の文化になってるぞ。それから検索エンジンから切られた話が明らかになるのも時間の問題だ。さっきお前が言った地図のウィキペディアのようなものが今後の主軸になれば、地図関連の会社はある程度業務転換しないと生き残れない。でもパワハラが横行する会社にイノベーションが生まれるわけがない」
嶋津はしばらく僕の顔を見ていた。そして頷いた。
残っている百四十万に二人の生活費として残しておいた六十万を足して二百万。これで空売りする。六百万円分。株価が半分まで下がれば、最初の二百万が千二百万に。逆に値上がりして倍になれば、四百万の負債。それどころか急騰すると、破産だ。

株価が動かない。僕は五日後に金龍飯館の給料が入る。嶋津は経済誌の仕事が少なかったので口座に二万しかない。家賃と借金は二十日後に支払いが来る。一ヶ月程度なら嶋津を助ける事も出来るがそれが限度だ。何を削るか。とりあえず食費だ。金龍飯館は賄いが出るので一日一食は確保できる。しかしそれでは腹が減る。嶋津は1㎏二百円のパスタで食いつないでいたが、二か月ガス代を支払っていなかったので一昨日止められた。安価なドッグフードで食いつなぐ。ここで地図製作会社の株価が上昇すると、僕らはドッグフードも食べられない。
よせばいいのに株で失敗した例を検索する。自己破産は7年間信用情報機関に記録が残る。その間ローンも組めない、カードも作れない。それどころじゃない。株価が大きく動いた日は各地の電車が事故で止まる。マーケットからだけじゃなく、人生からも退場する奴らがいる。

「パワハラの情報をマスコミにリークするのはどうかな」
嶋津が答える。
「マスコミはリーク元の身元が確定出来る関係者じゃないとそこまで動かないんだよ。リークされる側が広告主になっている場合も多い。媒体も報道も動かない。俺が関わった経済紙にも結構色んな情報が寄せられるんだけど、相手にしてられないんだよね。記者と太いつながりがあって、身元が確かな情報。それでも厳しいな。このパワハラが刑事事件になるぐらいじゃないと記事にならない。パワハラはその辺に転がっているからな」
「嶋津は経済紙の中の人じゃないのか? 太いパイプの人だろ?」
白い磁器の茶のみをもてあそびながら嶋津は言う。
「俺はそんなんじゃない、下っ端に使われる下っ端。じゃなければこんなとこいない」
「お、こんなとこってどういう意味なんだ、あ?」
「言葉尻とか揚げ足取るんじゃねぇよ、腹減ってるからってよ、お前なに金龍飯館愛してるんだよ、バイトのくせによ」
「バイトとか関係ないだろ、もう炒飯食うんじゃねえ、来るな」

ふらついて仕事をしていた僕を見てヤン君が心配した。
「最近相方のキャッチャー、ふらふら。朔ちゃんもなんかふらふら。どうしたの」
僕は適当に話す。
「嶋津も僕も同じ株でやられちゃったんだ」
ヤン君とリーさんは僕と嶋津に一日二食分の中華弁当を作ってくれた。魯肉飯、焼売、唐揚げ、春巻き、回鍋肉、青椒肉絲。嶋津が弁当を貪り食いながら叫ぶ。
「金龍飯館、最高だ、尊い場所でバイトをしているお前も、尊い」
二週間ほど経った。経済紙の片隅にある車メーカーが自前で新たなナビゲーションシステムを開発するという記事が載る。僕らが空売りした会社の地図データは今回は外された。株価が僅かに下がる。
「こんなもんじゃ、だめなんだよ、地の底まで落ちてくれないと。落ちる材料はちゃんとあるんだよ、嶋津、お前の借金の支払いはいつだ」
「一週間後。マジでやばい。払えなくなったらお前の部屋に居させてくれ」「貧乏役者とか貧乏芸人とか、貧乏が付いたらそれなりに絵になるけど、嶋津ってただの貧乏嶋津だからな」
嶋津は全然可愛くないふくれっ面をして金龍飯館から出て行った。

まずい事に地図製作会社の株価が上がった。ここ最近動かなかった日経平均株価に連動した。日本銀行が金利を下げるかもしれないという空気がマーケットに広がる。地図製作会社と何も関係ないマーケットの雰囲気に影響された動きが僕らの損失を広げる。損失は百万を超え始めた。息ができない。

五日後、地図製作会社内部のパワハラがネットで話題になる。パワハラを行っているのが役員であることが世間にインパクトを与えた。少し前に別の会社の役員のパワハラが世間で話題になっていた。会社上層部のパワハラを世間が許さない雰囲気を作っていた。それでも株価は僅かにしか落ちない。

しかし、その時は来た。僕らにとっては最高のタイミングで地図製作会社が検索エンジンから切られるというニュースがマーケットに流れる。地図製作会社は大口の顧客を失う。そして誰もが使う巨大IT企業から切られたことはマーケットに強烈な印象を与え、株価は急落した。
僕らの二百万は一瞬で千九百万になった。
嶋津は借金を完済した。「体がふわふわする、地に足がついていない気がする」と呆然として言う。リーさんとヤン君に弁当のお礼を言う。リーさんには山口の外郎と虎屋などの和菓子詰め合わせ。ヤン君には限定品のニューバランスとシュプリームのTシャツをあげた。
「このニューバランス、どこにあった?最高!」
僕らにハグをした。リーさんは山口の外郎が本物だと常日頃言っている。
「朔ちゃんも嶋津くんも家賃払えたんだね、良かった。そうそう、今日お店午後二時で閉めるから。言ってなかったね、ごめんね」
ヤン君はいつもの柔らかい笑顔で言う。
「なんかあるの?」
「僕たちも家賃。家賃の話し合い」

二時前に男性たちが四人ほど来る。五十代から六十代。一目見ただけでみな仕立ての良いスーツとわかる。
僕はジャスミン茶をポットに入れて出した。
「朔ちゃんはね、今日はもういいよ」
リーさんはいつもの笑顔で手を振る。逆にスーツの男たちは一様に表情が硬い。一人は何もないところでつまづいた。得体の知れない緊張感が伝わって来る。
僕らは店を出た。嶋津が言う。
「あいつら何なんだ? 家賃交渉であんなスーツのおっさんが四人も来ないだろ。おまけに三人がつけてたバッジ、近くに本店があるメガバンクだぞ?」
「その銀行がこのビルのオーナーなんじゃないの?」
「このビルのオーナーはそのメガバンクと違う系列の商社だ。一人は弁護士バッジ付けてたぞ。他は場数踏んでいる奴らに見えたぞ。あの緊張感って何だ?」

後日ヤン君が言う。
「家賃の値上げはなかった、よかったよ」




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