さよなら炒飯!八皿目
鉄橋の下でヘッドライトに照らされた嶋津は最初こそ動きもしなかったが
僕が車を停めると、逆方向に走り出した。慌てて車から降り、嶋津!と叫んだ。嶋津はこちらを一瞬振りむくが逃げる。嶋津の足はチームの中でも速い方だった。しかしすぐに追いつき肩を掴んだ。
「すみません! 明後日ぐらいにはなんとか!」
「嶋津、俺だ、俺だって」
「その時までには用意しますから!」
「嶋津、お前何言ってるんだ?」
嶋津は息を切らせて言った。「あ、あれ? 朔ちゃん?」
だらしなくアスファルトに座り、しばらくして僕を見上げて言った。
「久しぶりだね、元気?」
「お前、こんな夜中に何やってんの?」
笑いながら嶋津が言う。
「朔ちゃん、それ朔ちゃんも同じだから」
嶋津はポケットからくしゃくしゃになったタバコを取り出して咥えた。
僕も嶋津の横に座った。土手のアスファルトは昼間の熱が少しだけ残っていた。鉄橋を貨物列車が轟音を立てて走る。
「さっきさ、返しますって言ってたの、借金?」
「まあ、ハタチ超えて返すのはカネだよな。恩とか返す奴は見たことないぜ」
僕らは夜中の河川敷で二人座り込み、黙っていた。街灯に照らされた嶋津の身体は明らかに大きくなっていた。15キロぐらい太っただろうか。
色白の肌は変わらず、しかし顎から首に着いた肉を滑らかに覆っている。僕は十年間の歳月を感じた。嶋津は僕の何に十年間を感じているのだろう。
深夜に土手に座り込んで話すのもどうかと思うので、嶋津を車に乗せた。
「お前、しょぼい車乗ってんな」
「親父の車」
しばらくしてから嶋津が言った。
「朔ちゃん、俺さ、お前の親父の車をしょぼいとか言ったんだぜ、なんもないのかよ。朔ちゃんが運転席から俺の事蹴り飛ばしても文句は言えねぇ。そこら辺、あんま変わってねぇな」
もちろんむかついていた。でもここでキレたところで何かが変わるようには思えない。でも一応言った。
「借金抱えてる奴に説教噛まされたくないんだけど」
「お前のプライドが情けねぇって話だ」
言い返すのもめんどくさい。
深夜営業のファストフードに入る。秋が始まったというのにきつい冷房が体を冷やす。
僕がコーヒーとチキンバーガーを頼むと嶋津は横からダブルチーズバーガー二つとフィッシュバーガー一つ、ポテトのL、チキンナゲットとコーラLと吠え、とりあえず立て替えておいてね、と言う。
「ビールないの?」
嶋津が中途半端にふざけて店員に聞いた。再会の熱が恐ろしい勢いで冷めていく。
「ある訳ないだろ」
「今のうち連絡先よこせ」
「何で」
「ハンバーガー代踏み倒されるのも後々引きずるだろ、カッコ悪い」
「俺が踏み倒す前提なんだな」
嶋津はダブルチーズバーガーとポテトとチキンナゲットを同時に口の中に入れた。ポテトが口からこぼれる。
明るいところで改めて嶋津を見ると、すえた生活の匂いが染み出ている。何日も着ているような青いボタンダウンシャツ、皺だらけのチノパン。汚れて黒の面積の方が多いアディダスのスタンスミス。全身が穴の開いた靴下のようだ。二十代とは思えぬすり減った焦燥感。そんなものが嶋津から漂う。あれだけ跳ねていた面影はまるでない。
身体に冷たい砂が流し込まれた様な暗い気持ちになった。嶋津のあまりの変わり様を目にしたのもあったが、自分も言えたような立場ではない。もし、今僕が社会に足掛かりをつかんでいたらこんな気持ちになっただろうか。たぶん違うと思う。嶋津に寄り添って彼に何が出来るか考えたはずだ。今、そんな余裕はない。
「借金、いくらあるんだ」
「六百万。先に言っておくと四百万は消費行動分析をする会社を作ろうとしたら、知らないうちに誰かが持って行った。遊んだわけじゃない。二百万は何となく消えた。まあいいだろ、そんなことは。朔ちゃんは大学行って野球やったって聞いたぞ、今何してんだよ」
「中華料理屋でバイト」
「はあ? マジで? 馬鹿じゃねぇの?何の不自由もなく大学行ってそれかよ。俺はお前らの盾になってこの有様だって言うのによ」
「あれはお前が勝手にやって逃げたんだろ」
「大した事ないストレートしか投げねぇのによく言うぜ」
反射的に立ち上がりテーブル越しに嶋津を殴ろうとした。大した事のないストレートで僕たちは試合を作ってきたんだ。
嶋津は素早く立ち上がり、手のひらをこちらに向け、叫んだ。
「朔ちゃん、それ右手!」
青白い照明の中で僕らはしばらく押し黙った。コーヒーカップが倒れ、床に黒い染みの様に流れている。嶋津がつぶやいた。
「殴られそうになってるのに、ピッチャーの利き手に気を使うとはな」
僕はトイレに立った。壁にわけのわからない染みが付いた狭い洗面所で顔を洗った。茶色のペーパータオルで顔を拭く。硬い感触が僕を包む。あの部屋で全裸になって熱弁をふるい、僕らを前に向かせた嶋津。
席に戻ると嶋津はいなかった。僕のチキンバーガーも無くなっていた。