田舎と都会の”優しさ”は異なるカタチをしている。
「田舎の人間は優しい。都会の人間はみんな冷たい。」
そんな言葉を聞いたことはありませんか?
私は山形県の山奥の生まれ。中学校を卒業するまで過ごしていました。
小さいころから、このような言葉を耳にすることが多かったな・・・という印象が今でもあります。
その中で、私自身「田舎」での生活に対しての違和感も強くありました。
そのことについて書き留めて行こうと思います。
■田舎の人は優しい=>裏を返せば”過干渉”という冷たさ
生まれてから中学を卒業するまで長く住んでみて、田舎の人は確かに優しいなぁという印象があります。
いつでも声をかけてくれて、困った時は手助けもしてくれて、近所付き合いの大切さというものを肌で感じます。冠婚葬祭の時は近所総出でサポート。すごくありがたいのです。
しかしながら、田舎独特の”閉塞感”と”団結力”が産むものであったり、他人なのに身内のように接することからくる”過干渉”な感覚が「生きづらさ」として感じることもしばしば...
そこから先は入り込んでこないで...!!!!
いわゆるパーソナルスペースの部分です。触れて欲しくない話題であったり、あまり干渉されたくないことというのは誰しも持っているものだと思います。
推測ではありますが、深い横のつながりから他人を他人と思えない。いわゆるお節介な部分が入り込みすぎて、過干渉という形になっているのではないかなと。
それが全て悪いという訳ではなく、少し一線引いて欲しいなと思うことはよくありました。
私が生まれた地域...体感ではありますが、人の噂話や憶測が飛び交って、羽を付けてお茶受けとして飛び立ってしまうことがよくあります。
・あそこの長男は日中家にいる
=>[噂]仕事してないらしいよ(してるっての)
=>[噂]ひきこもりかしら。あの人の親は大変だね。(ちがうっつーの)
メンタル不調になった時、実家に戻るという選択をしませんでした。
その最大の理由が、「噂がすぐ広まるから」です。
集落や町内会レベルではなく、市町村レベルでその噂が一気に広まってしまうので、とてもじゃないけれど休んだ心地がしないのです。
なんなら、***にいた。とか、行動が監視されているようなときもありますからね。(狭いコミュニティで車社会なので、あ、あの人の車だ!という認識ができてしまうという...)
その本心には、その人に対する心配もあるのだと思います。
それよりも憶測から噂が広まることが何よりも生きづらい...
私はそう感じていました。
■都会の人は冷たい=>裏を返せば”干渉しない”優しさ
いわゆる団地であったり、町内会というものが存在するエリアは該当しないかもしれませんが、隣人のどこの誰なのか、名前すらわからないという生活環境。
電車で隣になった人とは、15分もすればもう2度とあうことがなくなるような関係。困っている人がいても、他人のことには興味を示さず、皆スマホの画面を見ながら歩いている。
多くの人はこれを「冷たい」といいますが、これはこれで一つ”干渉しない”という優しさなのかなと考えています。
考え込んでも答えが見つからず、なんとなくボーッとする時間が欲しくなったり、家族とも距離をおきたくなったり、友達とも連絡をとりたくなくなるような時はないですか?
誰にも干渉されたくない。
少しほっといて。
そんな時間を過ごせるのは、田舎にはない都会の良さなのだと私は感じています。
田舎にはそういう場所はないの?
と思う方もいるとおもいますが、僕の住むエリアではまずないです。
あるとしたら・・・山奥くらいですね。
■カタチの違う2つの優しさ
どちらもカタチの違う”優しさ”だと思います。
それは、どっちが良いとか、どっちが悪いとか、そういったカテゴリでは括れないものではないかと、私は考えます。
「うつになったら田舎で養生せよ!!!!」
というのは必ずしも正解ではなくて、結局のところ、その人その人の価値観にあった環境がベストであるということになります。
都内でITエンジニアをしていた部下がうつになったので田舎で養生させたら、そのまま帰ってこなかった(部下にとって居心地が良すぎたので退職して永住した)。という話もありますし、田舎の人間関係に疲れてうつになったので都会に出たら、田舎に帰ってこなくなって都会で成功した。みたいな人もいますし、必ずしも一方的な選択がいいとは限らないというお話でした。