中華人民共和国前史 後半

 前回の記事で梁啓超を紹介したが、最も有名な革命家といえば孫文だろう。
 孫文は思想・政策を西洋に学ぶべきという点では梁啓超と同じだが、清王朝を滅ぼし共和国を成立させようとしていたことが違った。

 孫文は幾度となく革命を試みるも、そのたびに失敗していた。
 何度目かの失敗のあと、孫文は新軍に目をつけた。新軍は西洋式の訓練を施された清朝の軍隊だ。日本への留学経験もあり、革命思想を受け入れる下地があった。

1911年 新軍内に味方を作ったことでようやく大規模な蜂起が起こる。辛亥革命である。
 清朝最強の軍隊、北洋軍は李鴻章の死後、袁世凱に受け継がれていた。

 袁世凱は権力への嗅覚が鋭い。落日の朝廷に仕えるよりも旭日昇天の革命派についたほうが得だと判断する。
 袁世凱の手により、皇帝は退位に追い込まれる。ここに清朝は滅んだ。

 革命勢力は孫文を臨時大統領に据えるも、すぐに袁世凱が正式の大統領に就任。中華民国が成立した。
 袁世凱の死後、再び対立が起こる。争点となったのは第一次世界大戦へ参加するか否か。

 北京政府は参加を表明。しかし孫文たちはこれに反対する。
 孫文は国民党を結成し、北京から遠く離れた広州で国民党政府を開いた。
 孫文死後、蒋介石が国民党軍を率いて北京政府を倒し、中華民国を統一。

 しかしその統一も不安定なものだった。国内には軍閥が割拠し、共産党も党員を増やしていた。
 さらに対外問題もあった。日本の関東軍が東北部で支配地を拡大していたのだ。

 蒋介石は「安内攘外」政策を採用。これは国内を鎮圧し、対外問題は後回しにするというもの。
 国民党軍は共産党を攻撃。共産党は根拠地を離れて安全な地を目指す。この旅路はのちに長征と呼ばれた。

 中国共産党は1921年に上海で成立。毛沢東は創立メンバーには入っていなかった。
 毛沢東は金に困る新聞記者にすぎなかった。共産党へ近づくと、毛はいい金づるを見つけた。ソ連だ。共産党内で目立ってさえいればソ連から生活に困らないほどの金がもらえることを発見した。

 共産党は拡大を続け、端金という街を根拠地とする。しかし国民党軍がそれを襲った。共産党ははるか北の彼方にある延安まで逃げる。
 長征が終わると、党の支配は毛沢東が握っていた。

 毛沢東は党の有力者たちを国民党と戦わせ、勝ち目のない戦いに赴くようけしかけ、自分の軍隊だけが生き残るように立ち回った。その結果、長征が終わるころには毛沢東だけがまともな軍隊を持っていた。

 毛沢東には人間的な魅力がまったくといっていいほどない。彼の権力掌握の手段は陰謀と恐怖だ。
 延安に根拠地を構えると、毛は整風運動をはじめた。大規模な洗脳に他ならない。反対者たちを拷問にかけ、逆らう思想を徹底的に弾圧し、自由意志を破壊し、延安の人々を自らの意のままに動くマネキンへと仕立て上げた。

 日中戦争が本格化すると、蒋介石は安内攘外とも言ってられなくなる。共産党と協力して抗日に全力を尽くすと宣言。
 国民党軍は日本軍と戦い、両軍のいない空白地帯で毛沢東は勢力を拡大していった。

 日本がアメリカに宣戦布告したことで、中華民国は連合に加わることとなる。これが終戦後、中国を四大強国の地位へ導いた。
 しかしアメリカとの同盟では戦局は打開されなかった。日本は破竹の勢いでビルマ方面へ兵を進める。国民党軍が日本軍を追って南へ行くと、北では共産党が勢力を広げた。

 ようやくにしてアメリカが日本周辺の制海権を取ったのは1945年のこと。海上輸送ルートを断たれた日本は継戦が不可能となり、二度の原爆投下という象徴的な出来事の直後に降伏した。

 終戦後、国民党と共産党は歩み寄りを見せる。しかし翌年には全面戦争に突入。陸続きのソ連から支援を受ける共産党が勝利する。

1949年10月1日、中華人民共和国成立。毛沢東は建国者としてその名を歴史に刻んだ。

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