中国の歴史 二
前回に引き続き、中国の歴史シリーズ二巻目。稷下の学士の時代から、前漢の滅亡まで。
稷下の学士は中国史を学んだものならだれでも知っているだろう。斉の国に集まる学者たちだ。彼らの議論により学問は発展し、諸子百家が生まれた。
諸子百家には儒教、老荘、法家など、さまざまな系統がある。その中でもとくに老荘の思想が、稷下では主流だった。これは秦が天下を統一しても変わらなかった。
思想世界の流れが変わったのは漢の武帝の時代。武帝は儒教を好み、国家として儒教を支援したために正当な思想という地位を得た。今では中国で生まれた思想といえば儒教がその代表格だ。
昔から、私は儒教に魅力を感じなかった。単純に老子にはまったからというのもあるが、歴史的背景も理由のひとつだ。儒教は武帝という、歴史に大きな影響を及ぼす人間が好んだから主流になっただけで、儒教自体に他の思想に勝てるような強みはないと思っていた。
儒教は孔子がはじめたものだから、当然、孔子への評価も低かった。
しかし今、あらためて中国史を学ぶ中で孔子への評価は変わりつつある。孔子は儒教の親ではなく、諸子百家の源流ではなかったか。つまり、孔子という人間のどの要素を重んじ、その言葉をどう解釈するかで、百家に別れたのではないかとも思うのだ。
論語の中には隠者気質めいたものを感じる文章は多い。晩年の孔子は政治には関わらず古典の編纂にあたっていたのだから俗世離れした雰囲気がある。それは老荘との親和性が高い。
孔子と並ぶ儒教のスターといえば孟子だ。孟子は性善説を唱えたが、これに対して荀子は性悪論を唱えた。しかし、荀子は自分自身こそが孔子の後継者だと自認していた。
他にも法家や墨家などがある。それらすべてが孔子の作ったものだというつもりはない。ただ、すべての学問に影響を与えているのではないか。というか、学問を爆発的に発達させた起点ではなかったか。
孔子起爆剤仮説は諸子百家を詳しく調べることで明らかになるだろうが、今週から一ヶ月間ほど仕事がバチくそにめんどい感じなのでたぶんきっと忘れる。
荀子の弟子に韓非子がいる。彼は当時あった法家の思想を推し進め、書物を表した。秦王政は韓非子の大ファンであり、この人物と親しく話せるならば死んでも構わないと言ったことがあるほどだ。
韓非子本人を部下にすることはできなかったが、その思想は秦の政治に取り入れられた。法治による中央集権は推し進められ、力をつけた秦は他国を滅ぼし、天下を統一。秦王政は始皇帝となる。
ちなみに春秋時代初期は、諸侯は強大な力を持ち、諸国は中央集権的な体制だった。
国の長(当時は諸侯。のちに王)は大臣や武将に褒美として領土を与える。領土は自分の手持ちから与えるので、褒美を与えるたびに部下たちは強くなり、王の力は削られる。これによって集権体制は崩れ、力を持った家臣が多く林立する分権的な体制となる。こうなると国は内部で分裂し、国力も内部での衝突に費やされる。そうなると他国への遠征など夢になる。
春秋時代初期には覇者と呼ばれる、中原全土に影響力を持てる諸侯がいた。しかし、時代がくだると君主の力は弱まり、覇者はいなくなる。
秦が天下を統一できた要因のひとつは中央集権に成功したことだろう。他の諸侯たちは時代が進むにつれ力を失ったのに対し、秦だけは法治によって集権化が為されたのだから、この対比は面白い。
紀元前221年、秦は天下を統一。そして紀元前206年に滅ぶ。秦のあとに天下をとったのは漢だ。
建国者の劉邦が死ぬと、妻の一族である呂氏が力を持つ。呂氏がいなくあったあと、文帝が即位。文帝と、その次の景帝の時代は戦争もなく平和に過ごせたため、文景の治と讃えられる。
文景の次に即位したのが漢の最盛期を築いた武帝だ。
中国で最初の正史を記した司馬遷は武帝時代の役人である。歴史書を読んでいてつくづく思うのは、これ以上詳しく知ろうと思えば史記を読むにしくなはいということだ。本紀は読んだのだが、それ以降は読んでいないので是非読みたい。
武帝が儒教の興隆を推し進めたことは記した通りである。
武帝のあと、霍光が権力を握る。霍光は皇帝を廃立させるほどの力を持った。
霍光の死後、宣帝の親政がはじまる。宣帝は武帝とは逆に儒者嫌いで、法家を重んじた。
宣帝の言葉にこんなものがある。儒者は教条主義的で時代に合わせることができない、と。
逆にいえば法家は臨機応変な対応がとれるということだ。法家が教条主義から脱することができたのは荀子の影響があるのだろう。荀子は古の聖王の政策も、今の時代には合わないのだから、現代の君主は時代に合った政治をすべきだと説いた。
宣帝ののち、漢は王莽に国を乗っ取られる。
王莽は国号を新とした。紀元後8年のことだ。
王莽のとった政治はまさしく荀子が否定した政策そのもの。理想の時代である周の政治を真似するというものだ。役職の名前などもすべて周の時代に戻す。
役職の名前だけでなく、王莽はなんでもかんでも改名した。なんとも変なやつだと思っていたが、以前論語を読んだおかげで今はわかる。これは孔子が「政治をとる立場になればまず名を正す」と言ったことに起因しているのだろう。
王莽の政治は悪政そのものであり、十五年後に新は滅亡した。
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