無人駅の灯のもとで 小説
無人駅に灯が灯る。
ベンチに座っていた少年の、真っ白い肌が鮮やかに閃いた。
遥香は見惚れていた。初のバイト、いつもより遅い電車に乗るため駅に着くと、幻のように美しい少年と出会った。
遥香は少年を知っている。同じクラスだ。
奏 雪(かなで ゆき)。だれともなじまず、いつもひとりでいる。
容姿の良さはだれもが認めるところ。しかし胸の内を秘める彼の姿が、他者を拒絶する防波堤となっていた。
けれど、ここにはだれもいない。
真っ暗闇の中にぽつんと浮かぶ構内は、世界はここだけだとなのだと錯覚させる。
遥香はおずおずと近づいた。
「奏くん、だよね?」
呼びかけられ、少年は本に落としていた視線を上げる。
「そうだけど、なに」
「や、たまたま見かけたから。…えーっと、どっち方面?」
雪が指さしたのは遥香の帰路と同じ方角。
電車の到着を告げるアナウンスが鳴り響く。
誰も乗っていない車両、遥香が入ってすぐの場所に腰掛けると、雪は別の車両へ。
暖かい車内、遥香はほうとため息をつく。
「……声も綺麗だったな」
翌日、コンビニのレジに立つや声をかけられた。
「こんにちは、渡会(わたらい)さん」
「須谷さん、こんにちは」
須谷は40代の女性。まとう雰囲気は穏やかだが仕事はテキパキこなす。面接の時にも顔を合わせた。
「どう? 慣れそう?」
「まだ二日目ですから。けど早くお役に立てるようがんばります」
会話は大勢の客が入ってきたことで遮られる。
帰宅時、スーツ姿のサラリーマンに、部活帰りの学生たち。同じ高校の制服だ。学年は違うが。
駅前にあるここは彼らにとっての補給基地。部活で消費したカロリーを取り戻すため、揚げ物を3つも4つも買っていく。
客がはけたタイミングで期限切れの商品を回収して回る。カゴにいっぱいの食品を入れ、廃棄ボタンを押してレジを通していく。
「……もったいないですね、これ」
「そうねえ。でも食べちゃいますだめよ?」
業務を終えると、いくつかお菓子を買って店を出た。
道を挟んだ駅の改札をくぐると、灯ったばかりの電灯のもと、今日も奏雪は本を読んでいた。
わずかばかり顔をあげる。遥香の顔を見ても反応はなく、すぐに視線は文章へと戻った。
連日話しかけるのも気が引ける。
遥香は奏の前を通り、隣のベンチに腰掛けた。
遠目に雪を見ると、膝の上に乗った本の表紙が目に入った。
図書室の貸出ものだ。
入学してから二年、図書室になど行ったことがない。
(今度行ってみようかな)
遥香は目を閉じ、頭を窓ガラスにもたげた。
レジから駅の構内までは50メートルほど。
水滴に濡れたガラス越しでも、その様子は見通せる。
時雨の空、客足は遠い。
「あの子、同じ学校の子よね?」
「ベンチに座ってる人ですか? はい、同じクラスです」
「いつもあそこにいるのよ、ずっと。何かあるのかしら?」
「ずっとですか?」
「そうなの! 七時前から、九時すぎるまでずっとよ。だれか待ってるのかなーって思ってたんだけど、九時の電車が来るとひとりで乗っていくの。不思議だから覚えちゃった」
「そう、ですか。……すみません、あまり仲良くなくて」
「そうなの? けど遅くなると危ないから、かわいい子は特に。気をつけるよう言っておいてくれる?」
「あ、えーっと、一応言っておくと、男です、奏くん」
「あら! そうなの? 綺麗な顔だから、あたしてっきり。失敬失敬」
「はは。わかります」
時計が八時半を指すと、遥香は一礼してバックヤードに入る。
着替え、自分へのご褒美として菓子パンを買って店を出た。
冷たい風が打ち付けてくる。吐息で手のひらを温めながら駅に走った。
ベンチを通り過ぎる時、ぎゅるるるるーっとお腹の音。
立ち止まる。見下ろすと、雪が何事もなかったかのようにページをいじっていたが、頰がかすかに染まっていた。
遥香は手元のパンを見る。
少年の隣に座った。雪は驚き、ベンチの隅による。
「あー、パン買いすぎちゃったー。ひとりじゃ食べきれないなー。お! 奏くん、ちょうどいいところに。これ、一個食べてくれない? 捨てるのもったいないし」
大根役者が勇気を出してパンを差し出すも、野良猫は視線を背ける。
「間に合ってます」
再び、腹の音。
「食べてくれるとありがたいんだけど」
「けっこうですから」
強情な態度に、遥香も意地になってきた。
「うっかりたくさん買いすぎたの! 助けると思って」
押し付けるようにしてシュガーデニッシュを渡すと、奏は小声で「ありがとうございます」と礼を言った。
遥香の様子を伺いながらおっかなびっくり袋を開けた。甘い香りが鼻をつく。
猛然と、雪はかぶりついた。よほどお腹が減っていたのか、ものの10秒でパンは姿を消す。
「もう1個、どう?」
今ので我慢が効かなくなったのか、雪はチョコチップパンも受け取った。
炭水化物を腹に詰め込んで気が緩んだらしい。今日は離れた席に座ることを忘れたようだった。
翌日も食べ物を持っていくと、雪はわずかばかり抵抗したものの受け取った。
電車が来るまでの時間でホットドックと蒸しチーズパンと酒饅頭を平らげ、恍惚の息をはく。
「お茶も買ってくればよかったね」
遥香が笑いながら言うと、雪は怪訝な表情。
「……別に、わざわざそんなことしてくれなくても。食べたあとで言うのも心苦しいですが」
「あ、やー、ごめん。迷惑だった?」
「迷惑ではないですけど。不可解です」
うっかり小動物に餌をやる感覚に陥っていた。遥香は頰をかき、視線をさまよわせる。
「お腹減ってたみたいだし。ほっとくのもかわいそうだなーって」
「そうですか……。明日はいいですから」
きっぱりと言って読書に戻ろうとするも、遥香は話し続ける。
「奏くん、なんでこんな時間まで? このあと塾とか?」
「……なんでもいいでしょう」
「だって下校時刻から2時間もいるんでしょ? 本読むにしても家のほうが集中できそうだし」
家、その単語にぴくりと、雪の眉が動く。
遥香はその機微に気づくこともない。
「寒いし、あんまり長く外いると風邪ひくよ? 家のほうがあったかいし、ご飯も食べれるじゃん」
舌打ち。
雪は勢いよく立ち上がり、点字ブロックまで歩いた。
「あれ、もう来た?」
電光掲示板を見ても電車の到着まではまだしばらくある。
ネオンの光を受けた雪の横顔は、人の来訪を拒む氷山のように見える。
その険しさと美しさに、息を呑んだ。
雪は一瞥だけくれると、夜の闇に視線を戻す。
「本当に、明日からはけっこうですので」
突風と轟音。レールがきしみ、電車がとまる。
雪は最後尾の車両へと歩いていった。
雪は古いアパート暮らし。
扉をくぐる前から嫌な匂いが鼻をつく。
玄関には知らない靴が転がっていた。
嬌声が廊下に響く。不潔な女の声、知らない男の高笑い。
雪は耳を塞いで小部屋に身を押し込める。
どれだけ強く手のひらを押し付けても、目が痛くなるほど瞼を閉じても、吐き気は治まることがない。
父が帰ってきたらまた怒号が飛び交うことになる。
こんな場所、帰ってきたいと思えるはずがない。
耳の奥で鼓動がこだまする。
心臓が、あれの不潔な血を送り出している。
えぐり出してしまいたい。血管を流水で洗い流して綺麗にしたい。真っ白に漂白されて、何もかも捨て去ってしまいたい。
こんな醜い体、朽ち果てればいいのに。
翌日、遥香は友達ふたりと昼食を囲んでいた。
唐揚げ肉じゃがウインナーと、真っ茶色のお弁当箱をつつく。
「今度見たい映画あるんだけど、一緒に行かない?」
「いいじゃん! 遥香は!?」
明るく髪を染めた長身の唯(ゆい)が言うと、愛花(まなか)が宙ぶらりんになった足をパタつかせながら賛成する。
巨大な唐揚げを一口で飲み下し、遥香が答えた。
「ごめん、シフト入っちゃって」
「うはー! またー? 遥香、バイトはじめてからぜんぜん遊んでくれないー。さみしいんだけど!!」
「愛花うるさい。そういえば、遥香はなんでバイトはじめたの? 欲しいものでもあるの?」
「欲しいものじゃないけど、旅行とか行きたいかも。あと猫」
「飼うの?」
「飼えたらいいなーって思ってる。うち、私以外猫アレルギーだから」
「つら! え、じゃあ行き先リストに猫カフェ追加したら?」
「再来週で」
遥香の即答に、唯が苦笑した。
「好きだねー。ま、かわいいけどさ」
「唯はあんま好きじゃない感じ?」
「嫌いじゃないけど。あいつら勝手にいなくなるじゃん。犬と違って読めないし」
「それがいいんだってー。あたしも猫みたいに気ままに行きたいー。受験したくなーい」
心底嫌そうに言う愛花。遥香はぼんやりと頷く。
「たしかに、懐かないところが可愛いってのはあるかも」
「だよねだよね!」
「んー。あたしはやっぱり犬かなー。猫って餌の時だけすり寄ってくるじゃん」
「やっぱり餌かー」
「なに? 野良猫でも手懐けてるの? やめなよ、無責任だよ」
「チュールだ! チュールなら一発よ!」
「手懐けてる、そうね。そうかも。どうしたらいい?」
「どうしたらって……責任持つことじゃない? 半端に餌付けしたら近所迷惑だし、最後まで面倒見ないなら餌はあげちゃダメ」
「もうあげちゃった。二回も」
遥香が言うと、愛花が食いついた。
「え、なになに!? その子どこにいるの!? かわいい!?」
「ダメだよ、繰り返すと味しめるから。可愛そうかもしれないけど、もうやめなさい」
唯の顔を見る。愛花はスマホを手に猫動画をあさり始めた。
「ごめん、もう虜になっちゃった」
遥香は手を合わせ、席を立った。
昼休みの図書室は閑散としていた。
ストーブ近くの机に数人の女子生徒が本を広げている。
その奥、陽だまりのできた机にぽつりと、妖精のごとき少年が座っていた。
遥香のたてた物音に反応し、顔をあげる。
「こんにちは」
小声で声をかけると、雪は顔をしかめ、身を引いた。
向かいの席に座ると逃げられる、そう直感し、距離を保ったまま反応を待つ。
「……なん、ですか?」
「やだなー。たまたまだよー。たまたま本読みに来たら見かけたから、声かけただけ」
「……そうですか」
言って、本の影に隠れようとする。
遥香は何か言おうと考える。ここに来たら会えるという確信で行動したが、先の事は考えていない。
「あー、えーっと……。コンビニ行く途中に喫茶店あるのわかる?」
「まあ、はい」
「今日行かない? 野ざらしのホームより本読みやすいと思うんだ。もちろん、おごるから」
「なにがもちろんなのかわこりませんけど。……いやですよ」
「お昼、ちゃんと食べた?」
雪はふいと顔を背ける。
「あなたには関係ないです」
「私、お金はあるから。貧困はほっとけないの。ノブレス・オブリージュってやつ」
遥香は無意識のうちに机に身を乗り出していた。
間近で見ても雪の容貌に欠点は一つとして見つからない。
きめ細やかな髪は陽光を受けて輝き、ガラスのように透き通った肌の下には真っ赤な血潮が脈打っている。
小さく愛らしい唇から、玲瓏な言葉が紡ぎ出された。
「ずいぶん粗暴な貴族もいたもんですね」
「貴族って身勝手なものじゃない?」
人差し指を立て、頰に突き刺す。野良猫はうざったそうに目を細めた。
一緒にお茶をしたからといって特別なことは何もない。
会話らしい会話もなく、雪は文庫本に目を落としながら時折ホットチョコレートを口にし、遥香が話しかけると最低限の言葉だけを返す。
いつもと同じ電車。
けれど体は冷えておらず、空腹の音も鳴らない。
入ってすぐの席に座る。雪はとまどいながらも、遥香の隣にちょこんと腰かけた。
電車は走り出す。灯の乏しい田舎道。月明かり差し込む車内は空寂としている。
規則的な揺れが眠りを誘い、満腹の子猫はこくりこくりと船を漕ぐ。
さやけき月光が光輪を描き、少年を神々しく彩った。