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小説「杉治は及ばざる籠とし」②

2 懇談
先ほどまでとは打って変わり、大広間は十三夜を過ぎた季節の五つ刻にふさわしい、ひんやりとした冷気で満ちていた。

宗清を取り囲むように座を変えた、五名の周囲を除いては。
皆が大広間を後にしたのを見届けた宗清は、自らが手招き、杉谷の披露した巻物を中心に膝を突き詰め合う、小振りな車座が形成されていた。

宗清の左隣には、教育係でもある奥用人の長山が、まるで猫が獲物を狙って飛び掛かろうとするかのような姿勢で、顎に頬杖をついて巻物を覗き込んでいた。

五十の坂をいくつか越した長山は、ひどい腰痛持ちであり、長時間に及ぶ詮議の場などではよくこの姿勢を取る。奥用人らしく算勘に長け、合戦ともなれば極めて有能な兵站係として存分に腕を振るう。

表立った武功での活躍はないが、こうした地味でありながら重要な活動で実績を重ね、清廉で厳格な人柄で頭角を現し、宗高をして「人倫の道は兵衛に訊ねよ」と言わしめ、愛息の教育係に任ずる程であった。

その長山の隣に、重代の家老である稲原隆時が陣取り、鶴のように細い体躯をさらに縮込めた体勢で、苦虫を嚙みつぶしたような表情のまま瞑目し、しきりに何事かを思案しているようだった。

稲原は治水と開墾の達者であり、若かりし頃には自ら鍬を取り、泥だらけになりながら開墾や治水事業の陣頭指揮を執ることも、度々であったという。

その時に築かれた土塁は二十年を超す風雨によく耐え、土岐川とその支流に未だ一度も氾濫を許しておらず、新たに拓かれた開墾地は、宗清が生まれてからだけでも二倍以上の面積にまで広がっている。

また、夏は暑く、冬は寒いこの地域に強い作物として蕎麦の実を奨励し、一昨年の大凶作の折には、その蕎麦で多くの領民が命を繋ぐことを得た。

四書五経に通じ、深い洞察と明晰な頭脳を武器に、軍事内政両面から八柄家を支えている、重鎮中の重鎮である。長山よりいくつか若いだけであると言うが、未だに髪は黒々としており、頭の回転は衰えるどころか、増々その速さを増していると評されていた。

その隣が、八柄家の武芸筆頭で、病弱だった宗高の名代として数々の戦場でその名を轟かせた猛将、中山彦左衛門である。

長山よりもさらに年上だと言い、小鬢にも髭にも白い物が混ざっていたが、未だに厚い胸板と広い肩幅を持っており、毎朝毎夕、槍か刀を千回振るわねば飯も不味くなる、と豪語するほどの矍鑠かくしゃくぶりである。

落ち着かなげな様子で膝を揺らしながら、自慢の顎鬚をしきりに撫で付け、誰かが口火を切るのを今や遅しと待っていた。

そして杉谷治直は、相変わらず泰然とその場に座しながら、時折主君と重鎮三名の様子を窺うようにして、談義が始まるのを待っていた。

この杉谷のみが、父・宗高の代からの奉公となり、他の三名は先々代・宗春の代からの奉公だった。

宗清が生まれて間もない頃、宗高が幼少期に教えを請い、当時は京の妙心寺で住持を務める覚全大師が病に伏し、その見舞いのために妙心寺を訪れた際に出会ったのが、八柄家と治直の縁となった。

妙心寺にて病間に案内を請うため、開け放した座敷で待っていた時のことである。宗高は庭にひと際大きく咲き誇る桜の樹に目を止めた。広い庭に独り咲きの大木であったが、そのあまりにも見事な花をうっとりと見つめていると、庭先から声を掛けられた。

「おじさん! あの桜の花が気に入った?」
「おお、おお。大いに気に入った。もう少し近くでみたいと思うたが、今はここから動けぬでな。目を凝らして愛でていたところよ。」

声を掛けてよこしたのは、庭先でニコニコと笑いながら座敷を覗き込むようにしていた幼い時分の治直であった。

宗高がそう告げると、パッと顔を紅潮させた治直がするすると桜の木に駆け寄り、あっという間に自分の身長の五倍はあろうかという高い枝に飛び上がった。そのまま抜く手も見せずに小刀で良い枝振りの桜を切り取ると、一回転して地面に飛び降りた。

宗高が、「あぶない!」と声を掛ける間もないほどの出来事だったと言う。

呆気に取られている宗高に構わず、その枝を座敷まで運んだ治直が、濡れ縁と畳の境目にその枝を差し込んで、ニコっと笑った。

気を取り直した宗高が、これもまた屈託のない笑顔で、

「これはこれは、見事な桜の木が座敷に生えたわい!」

と、大袈裟に喜んでみせると、さも得意げに鼻を鳴らして、またつむじ風のような速さでどこかへ行ってしまったと言う。

後刻、病間までの迎えに現れた僧侶に事情を伝えると、僧侶はすぐにそれと察し、寺で預かっている小太郎という名の童であると宗高に告げた。庭の桜が大のお気に入りで、「大丸桜」と自ら名付け、日に何度かは寄り添うようにして語りかけたり、地面や幹の掃除などを行って慈しんでいると言うのだ。

その、愛する桜の枝を、自ら手折ってくれた事実が、宗高の心を打った。

さらに僧侶は、産着に包まれたままで門前に捨てられていた赤子を覚全大師が引き取り、小太郎と名付けて寺で育てているのだと、童が寺にいる理由を語った。宗高は七つか八つ頃と目算を付けていたが、まだ四つになったばかりだと聞かされて、思わず驚嘆の声を上げた。

気働きと言い、敏捷な身のこなしと言い、とても四歳の童子のものとは思えなかったのである。病間に覚全大師を見舞った宗高は、挨拶もそこそこに小太郎を引き取って養育したい旨を申し出た。

生まれたばかりの息子の遊び相手として、行く末は小姓として、ぴったりだと考えたのだ。

覚全大師は非常に喜び、すぐに小太郎を迎えてその旨を伝えると、小太郎も大いに乗り気で、座り直して宗高に正対し、「よろしくお引き回し下さい」などと、およそ四歳の童子とはかけ離れた挨拶をして、またもや宗高を驚かせた。

その後、たっての願いで覚全大師と幾ばくかの酒を酌み交わしながら、小太郎の着ていた産着を見ても、その体格や性分を見ても、この辺りの農民の子とはとても思えず、武家の子か、公家の血を引いた子の可能性すらある、と告げた。

言われてみれば、先ほどの挨拶での所作などを見ても、何とはなしに気品のようなものが感じられ、一見突拍子もないような話のようで、実は的を射た話かも知れぬ、と宗高は考えたと言う。

美濃に来てからは、槍の名手として知られ、四十を越して子のなかった杉谷甚左衛門の養子となり、次期当主の側小姓として恥ずかしくないだけの手厚い養育を受けた。

ことに、槍や刀については天稟の才と言うのだろう、甚左衛門の教えを水を吸い込む砂のように吸収し、敏捷性と齢に似合わぬ上背で、十二の時には槍で大人と立ち会っても、決して退けは取らないまでに成長した。

十三の時に前髪を付けたままで正式に宗清の側小姓として仕え始め、十五で元服し名を治直と改めた。その翌年には父・甚左衛門と轡を並べて初陣を飾ったのである。

この時、甚左衛門は深手を負い、後にその傷が元で命を落とすのだが、治直はこの父を背負いつつ敵陣を切り開いて突破し、味方の陣まで帰り着くと、安堵のためかそのまま失神してしまい、三日三晩は目覚めなかったと言うから、戦いがいかに激烈であったかが、容易に想像できよう。

この時の戦闘には敗れたが、治直の獅子奮迅の槍働きは敵味方を問わず語り草となり、「杉谷治直」の名は、美濃近在ばかりでなく、遠く堺や坂東にまで広まった。

その後も、斎藤道山とともに甲斐竹田との戦闘や、尾田家と今河家の小競り合いに援軍として中山と共に参陣し、その都度手柄首を挙げており、尾田信英からは短刀を賜り、特に請われてそのまま半年ほど従軍したこともあった。

このように、武芸については以前から抜群の働きを見せていた治直だが、今この時、これほどの知略に満ちた大胆な作戦を提起するような男とは、この場にいる誰もが想像したことがなかった。

先程からの稲原の渋面と沈黙は、まさに自分が杉谷治直と言う人物を見誤っていたものか、それとも以前からその片鱗を見せていたのかを見極めるために、これまでの杉谷の言動や行動を思い返していることから来ていた。

「さて・・・小太どのよ・・・。今一度訊ねるが、ここに書かれていることは、実が伴うのであろうな?」

宗清が、幼き日にお互いを呼び合った名前で、いかにも親し気に語りかけた。ここに会している五名は、いずれも宗清が心を許した八柄家の誇る重臣と、共に育った兄とも慕う友であった。自然と打ち解けた様子になるのは、仕方のないことである。

「はい。十中八九、この通りに進むでしょう。残りの分は天命で引き寄せるほかございませぬが・・・。」

「うむ・・・。やはり、この最初の弔問が肝要であろうな? ここの動きさえ誤らなければ、まずは城獲りまではうまくゆくであろうと、儂も思う。彦左、どうじゃ?」

「見事な作戦と言えましょう。まさに、敵の虚を突き実を取るの典型と見まする。仰せの通り、最初が肝心でござる。」

宗清が口火を切ると、膝の動きがピタリと止まり、両手を膝に乗せた中山が低く落ち着いた声で答えた。

「問題は、城内で騒ぎが起こった後じゃ。いかにして気付かれずに援軍を伏せておくか、じゃな。」

長山の言は正鵠を射ていた。ここの連携がうまくゆかぬと、城内で孤立した自軍はあっという間に壊滅の憂き目に遭ってしまう。

「ごもっともにござる。それについては、某に些か策がございまする。実は、因幡山城の搦め手を守る羽賀虎三郎殿は、某が尾田軍滞留の際に昵懇の間柄となった戦友にございます。共に戦に加わった弟御の命を、図らずも某が救う結果となって以降、恩義に感じ下さりますようで・・・。」

そう言って、小袖の袂から三通の書状を取り出した。
いずれも宛名は杉谷であり、差し出しは羽賀虎三郎その人である。

「おお、虎三郎殿であれば儂も存じおるぞ。父御の甚次郎殿と昵懇でな。戦場で何度も同道致したこともある。長巻の名手でな。気持ちのいい若武者でござった。」

「はい。書状でも、中山殿のことに触れております。甚次郎殿の葬儀に格別のご配慮を賜った、と・・・。どうぞ、御披見下さい。」

書状の内容は、いずれも時候の挨拶が本旨であったが、都度、昔日の杉谷の働きに対する礼が慇懃に申し添えてあり、また共に戦場で立ち働きたいというような内容のものであった。

その最後の書状に、たった一行ではあるが、斎藤家の内紛への虞が書かれており、そのせいもあって知行の見直しが囁かれていることへの不満が垣間見えた。

「・・・うむ。これはまるで、恋文のようじゃな。お主、惚れられておるのではないか?」

中山が、至極真面目な顔付きで治直に告げた。
この時代、男色は決しておかしなことではない。「衆道」というひとつの「道」である。

身分の高い者にその道を歩む者も多く、色小姓などと言う専属職があったほどだ。

中山は、その恋心を巧みに利用し、策をさらに強固な物にできるのではないか、という意味で事実を告げたに過ぎない。

「ま、その辺りのことも含めまして、内応は固い、と見ております。」

治直も、ごく自然にそう答えた。
まずは普通に話を持ちかけるつもりだが、渋るようなら相手の恋心に付け込むことも考えていた。

中山はその返答に、意を得たりとばかりに力強く何度も頷き、語を継いだ。

「弔問の使者には、儂が立とう。身分は違えど、道山殿とは何度も共に戦った仲でもあるし、憚りながら儂であれば御館様の名代としても失礼はなかろうしな。手勢は、三十名というところか?」

「荷駄を引く者は別にして、警護にはその程度の人数がよろしかろうと存ずる。あまりに大勢では怪しまれまする。」

「さもあろうな。よし、儂の組下の中から特に腕利きを選んでその役に当てよう。気組も知れておるしな。搦め手の羽賀殿にはお主自らが当たるのか?」

「いえ、某は少数の手勢を率いて中山殿の合図とともに城内になだれ込みまする。因幡山西の大塚森の辺りに埋伏しておけば、城門までは四半刻もかかりますまい。この時期ならば朝夕に濃い霧が立ち込めまするし、まさにうってつけかと存ずる。羽賀殿には、手前の小者に書状を持たせまする。今まで何度も行き来している者にて、目立つようなこともございますまい。」

実践家二人のやり取りを無言で聞いていた長山が、ここで口を開いた。

「そのような大事、小者に任せて大丈夫か?」

「某が使者に立ちましてもよろしいのですが、それでは逆に怪しまれる恐れがございましょう。さらには、羽賀殿の内応はいわば次善の策。本旨はあくまで中山様と某の部隊でござる。」

「うむ。そうなると・・・。」

長山は懐中から愛用の算盤を取り出して、珠を弾き始めた。

「斎藤の城兵は七百から九百として、その半数以下で城を攻めとる、と、こう申すのか。」

「御意。城兵の数には手負いや未だ心服せぬ将兵も含まれておりましょう。こちらの付け目はまさにそこにございます。さらにはこの変事。実際に強硬に抵抗して参るのは半数以下、と見ております。」

「むぅ・・・。」

長山が唸り、また指で珠を弾き始めた時、稲原が重い口を開いた。

「・・・よろしいか? いずれお家の命運をかける戦になるのであれば、御館様に全軍を率いていただき、中山殿の出立と刻をずらし、後詰めとして進発していただければ、まさに盤石とはならぬか?」

稲原の進言は、中山や治直も思い描いていたことではあるが、口には出せずにいた。なんとしても、主君自らがが戦陣に立つのである。その危険は言うを待たない。しかも、それだとこの八甲館の守りに割くだけの兵が足りなくなるのは必定だった。

最悪の場合、戻る家さえ無くす可能性があるのである。

この時期、多くの兵卒は「半農半兵」であった。
普段は農民として作物を育てながら、有事には兵士として主家のために戦うのである。

ひと昔前であれば、将として部隊を率いる程の人物でも、平時は農民として暮らしていた。中山や稲原が若い頃が、まさにそれであった。身分の上下がそれほど激しくはなかったのである。

近年、農業技術の発展と共に石高が上がり、将官が専属で軍務政務に当たる余裕ができた。こうしてその将官の務めや内政の拠点として、「城」が、またその巨大化が、当たり前の世の中になってきたのだ。

さらに、領地争いの激化が進み、世が群雄乱立で覇を競う、戦国の様相を呈してくると、今度は専業兵士の概念が誕生した。尾田軍がいち早く取り入れ、戦果を挙げていた。

年に何度かの調練があるとは言え、やはり半農兵士と専業兵士では、戦闘力に大きな差が出る。八柄家では、尾田軍と合同で軍を動かすことも多かったことから、それを真似て、規模は小さいながらもこの専業兵士を抱えていた。

それが、中山彦左衛門の組下である。その数、百有余名。三十名の小隊を三つ作り、それぞれに小隊長を置いて槍組、馬組、鉄砲組に分かれて平時から訓練に明け暮れている。

この三組は、月ごとに組が入れ替わる。故に、全員が槍、鉄砲、馬の術に精通し、刀術と弓術は全ての組で基礎訓練として実施されており、完全に純粋な戦闘集団として機能していた。

その他の兵士は、宗清の直轄部隊に至るまでが半農兵士である。
今は農閑期であり、動員力は最大数が見込めるが、それでも五百名というところだろう。

「うむ、儂もそれを考えていた。いずれにせよ、このままでも八甲館の守りでは大軍は防ぎようがない。それならば、いっそのこと全てを賭けて、遮二無二因幡山の城を獲りに参るも、よいのではないか?」

宗清が、扇子を片手で開いては閉じを繰り返しながら発言した。
発言を受けて、今度は中山と治直が沈思黙考する番となった。

八甲館は、その名の通り「館」であり、「城」ではない。
周囲は土塁と生垣で囲まれているのみで、正面の冠木門以外は防御などは無きに等しい。

広さこそあり、山裾の方に広がって奥まってはいるものの、小部隊にてあっという間に攻め落とせるようなものだった。

山間の盆地に築かれていることもあり、天然の険なども全く期待ができないが、逆にそのために、付近の有力豪族からも警戒されずにここまで家を保つことができたとも言えよう。

つまり八柄家の、八甲館の防御力は、この無防備さと外交の折衝力によって成り立っているのである。

今回の作戦は、相手方のその「隙」をついての作戦だと言えた。
その気になれば、武将の一隊で攻め滅ぼせる家が、まさかに城に攻め寄せて来るとは誰も考えまい。

そして宗清と稲原は、どうせいずれその時が来るのならば、相手の出方を待つよりも、全軍で確固たる地盤を得るために、全てを捨てる覚悟で挑もう、と言う訳だ。

「・・・うむ、それであれば彼我の戦力差は五分五分のところまで持って行けますな。」

ひと際大きな音を立てて算盤を弾き終えた長山が、ぼそりと付け加えた。それを受けた宗清が、下から探るようにして、中山と治直を交互に見つめた。

「御館様にそのお覚悟がおありならば、もはや何も申しますまい。八柄家は、何としても、この戦にて必ず因幡山城を手中に収める。叶わなんだ時は、ここにいる皆が先頭に立って、地獄への道行と洒落込みましょうず!」

言い終えた中山は、のけぞって豪快に笑った。そこに追従する者は一人もいなかったが、治直も大きく頷き、稲原も愁眉を開いた。

「よし! それで決まりだ! では、詳細について詰めて参ろう!」

宗清がそう言って、扇子で発止と膝を打った。
治直は立ち上がり、大広間の一隅に掛けられた付近の絵地図を外して車座の中央に置いた。

長山は次の間に控えていた側小姓に、酒と握り飯の用意を言いつける。この軍議は長引くことになるだろうと見越してのことだった。

こうして幕を開けた軍議は深更にまで及び、酒も入った一同は、そのまま大広間の板の間で束の間の休息を取ることとなったのであった。

その傍らには、びっしりと文字の書きこまれた絵図面と、長山が新たに準備した軍令書が、書きあがって無造作に転がっていた。


「杉治は及ばざる籠とし」②
了。



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