小説「杉治は及ばざる籠とし」⑫
10
パチリと目が覚めた。
障子から薄明が差し込み、鳥の囀りが聞こえている。
長い長い、夢だった。
夢の詳細が瞼の裏にまだ残っていると感じるくらいに鮮明な夢だった。
朝の音に混ざり、濡れ縁を歩いて来る足音が聞こえてくる。
間違いようもない、彦次郎の足音だ。
「・・・朝に、ござります。」
「む、目覚めている・・・。」
それだけで、彦次郎の足音は遠ざかっていく。
あえてくどくど語る必要もないのがありがたい。治直は寝具から起き上がると、身繕いを始めた。
因幡山の城から尾田家の那古野城まではゆるゆると進んでも半日ほどの道のりだ。日のあるうちに城内に入りたかったので、この早朝の出立を決めた。こうしたことは、早いほど良い。尾田家の諜報網が事実を掴む前に、「自ら申し立てた」という事実が大切になってくる。
居間に赴くと、城からの使者が三方に乗せられた文箱を前に平伏していた。見覚えのない顔だということは、新たに宗清の臣となった旧斎藤家の人間ということだろう。まだ人となりも知らぬうちからこうした使者として遣わされると言うのは、それこそ宗清の闊達さを表しているようだ。
「・・・これを尾田様にお届けすれば良いのだな?」
「御意。」
「他に、何か言伝はあるかね?」
「いえ、特に申し付かってはおりませぬ。」
「相分かった。務め、ご苦労であった。」
あらためて深々と礼をした使者が退出していく。その立ち居振る舞いから、恐らくは茶の湯の道にも通じていそうな気配が感じられた。
伊佐次や彦次郎と軽めの朝餉をしたためた治直一行は、まだ陽も昇り切らない朝靄の中を、一路那古野の城まで歩み始めた。
道中、雪がちらつく寒さだったが、軽装の三名は軽く汗ばむ程度まで歩度を速め、太陽が中天を越えた頃には那古野城下に到着した。
近在では一番の賑わいを見せる城下の町ですすぎを使い、衣服をあらためて城へと向かうことにする。この間に、伊佐次が城門の使い番に来着を告げ、実際に治直が城に赴いた時に手間取らないように段取りを踏んでいる。世故に長けた伊佐次の使いに抜かりはなく、鼻薬を利かせつつ巧みな話術で相手を動かすことに成功していた。
本来であれば、城下で幾日が過ごした上で城からの呼び出しを受けるのが筋だ。城主信英は朝廷から官位も与えられている程の人物であるから、当世ではそれが礼儀の一つでもあるのだが、今回はその「数日」が惜しい。
そのため、あえて八柄家の家臣からではなく、治直と共に尾田家の戦陣にも立ったことのある伊佐次や彦次郎を供として連れてきた。堅苦しい正式の使者と言うよりは、旧友がふらりと立ち寄った体で面会を申し入れ、それを表向きの用件とすれば、尾田家の体面も損なわれずに済む。
案の定、一刻ほど後に治直が那古野城に赴くと、すでに青山与左衛門尉の配下が城門まで治直を迎えに現れていた。治直は、尾田軍参陣の折、この青山の指揮下で功績を挙げ、それが信英の目に留まって独立部隊の指揮を任されたという経緯があった。
その案内で城内に通され、大広間手前の一室で茶菓のもてなしを受けると、ほどなくして青山自らが現れた。
「あれから、三か年ほど経つかね?」
「左様にございます。青山様にはご健勝のご様子・・・。」
「はは・・・。最近は信永様に手を焼かされてな。頭に白い物が増えたであろう?」
「いえ、そのようには・・・。」
「申すな申すな。ここのところ今河との小競り合いはあるにせよ、めっきり戦から遠ざかっておってな。やることと言えば公家の相手と子守りと来ておる。それがこれ、戦などよりもよほどに手ごわい。」
「左様にございましたか。信永様は、おいくつに?」
「年が明ければ十になる。乱暴者で手が付けられんが、今に世の中を動かすお人になろうよ・・・。」
「はい。英邁の誉は八柄家にも聞こえておりまする・・・。」
「さもあろう、な。儂も随分と多くの子らを見てきたが、信永様は一味も二味も違う。まこと、将来の楽しみなお方じゃ・・・。」
打ち解けた様子で話しているうちに、青山が彦次郎の手元にある帯封のされた文箱に目を留めた。
「急に現れたと思ったら、なるほどそういうことか・・・。あの文箱を御館様にお渡しすれば良いのかね?」
「申し訳も、ござりませぬ。」
「良いわ。すでに御館様にもお主の来訪は告げてある。それにしても、武辺一辺倒と思うていたに、このような「わざ」も使うようになったとは、お主も「おとな」になったものよ・・・。」
青山の苦笑に治直も苦笑で応え、文箱を手渡そうとした時に、障子が開いた。そこに立っていたのは、紛れもない尾田家当主、尾田信英その人だった。
「おう、やはり杉治じゃにゃあの! どえらげにゃあやっとかめじゃの!」
この寒い季節にも関わらず、小袖一つに素足で城内を歩き回るこの賑やかな男が尾田家の当主とは、元から知っていなければ誰も気が付くまい。それこそ市で野菜でも売っているかのような気楽さで、誰にでもかすれた大声で話すのがいつものことだった。
「これは・・・わざわざのお運び、恐悦至極に・・・。」
「なぁにをとろくせゃあこと! で、なんね、いよいよわりゃに仕える気にでも、なったかね?」
治直は返答に困った。
お国言葉な上に早口でまくしたてられ、その意味するところがうまく聞き取れなかった。この無類のせっかちで有名な人間を相手に、下手な返答をしたらそれこそ取り返しがつかないことになる。
「御館様! いきなりそのように乱暴な。いくら気立てやすいとは言え、他家の人間ですぞ。」
青山がすかさず助け舟を出していなければ、治直の運命もまた別のものになっていたかも知れなかった。
「ん? そうきゃ? わりゃ杉治になら千石出しても惜しゅないがね!」
「ま、その話はまたいずれ・・・何やら、書状を持参して参ったようで。」
「こん、たぁけが、そんならそうとはよ言ってちょーせ。どれね?」
青山が文箱を差し出す。
信英はその場にどっかと胡坐をかくと、いかにもめんどくさげに帯封を破り、文箱の中から書状を取り出した。これも、包を破りながら放り投げ、書状をばさっと一気に広げて読み始める。その目の動きの速い事には治直も驚きを隠せなかった。
あっという間に読み終わると、いかにも興味なさそうに書状を青山に投げ返した。受け取った青山が目顔で了解を取り、書状に目を通す。
「おみゃあに任せる。うまいことしといてちょーせ。」
「は・・・。」
それで終わりだった。その後、軽く雑談をしていると、来た時と同じ唐突さで、信英はふらりとまたどこかへ行ってしまった。
「・・・殿様も、変わりませぬな。」
「相も変わらず、あの通りのせからし振りでな・・・。もはや慣れたとは言え、なかなか・・・。」
青山が苦笑を浮かべて首を振る。とは言え、そんな自分の境遇が満更でもない様子なのが見て取れた。
「・・・さて、任されたからには仕事をせねばならんな。あの調子では、御館様は斎藤家の内紛に関わる気はないと見ていい。此方も今河で手一杯のところではあるしな。で、どうなんだね? 義起殿を立てるつもりか? それとも斎藤家が八柄家に変わるかね?」
「無論、義起殿をお迎えする所存でおります。」
「・・・そうか・・・。ここだけの話、八柄家が後を継いでもどこからも横槍は入らんと思うが・・・?」
青山の言動は、まるでそれを薦めるかのような話しぶりだった。この機を活かし、世の中に打って出てはどうか、暗に言っているのだ。
「いえ、それでは筋道が通りませぬ。八柄家は、あくまで道山殿の厚恩に報いるために兵を起こしたに過ぎませぬ。お世継ぎがご健在である以上、まずは然るべきところにお返しするのが本筋にござる。」
「む・・・。まこと、殊勝なことではあるが・・・。・・・そこまで言うなればもはや何も言うまい。この旨、義起殿にお伝え致すが良い。」
「・・・? 身共が、でございますか?」
「もちろん儂も同席致すが、お主の口から伝える方が義起殿も喜ばれるであろう。これより三の丸へ向かおうではないか。」
「は、それでは。」
三の丸へは中庭を通り抜け、延々と続く渡り廊下を右に左に曲がりながら、ようやくに到着した。以前に治直が訪れた時よりも城の防備が増しているのが歩きながらでもわかった。この辺りは、さすがと言わざるを得まい。平時に於いて乱を忘れずの心構えが、そのまま城の構えとなっているようだ。
義起の居室として使われている二間続きのうち、手前の部屋に入ると、むせかえるような香の匂いが充満しており、治直は思わず顔をしかめた。潔癖と思えるほどに細やかな心を持っていると言う噂は耳にしたことがあるが、未だその顔を見たことはない義起の一面が垣間見えたようだった。
「義起様、青山でござる。来客をお連れし申した。」
「来客? 余にか?」
「御意。お通しして、よろしいか?」
「構わぬ、入れ。」
これが男の声かと思うほどに、か細く、高い声だった。そして驚くほどに声に張りがない。声だけで、身体のどこかが悪いのではないかと勘繰りたくなるような、そんな声だった。
襖を開けて平伏すると、香の匂いがますますきつくなった。
床の間の一段手前に、脇息に凭れかかるようにして座っている色白の男が見えた。その隣には、こちらは見違えるほど豊満で大柄な女がにやつきながらこちらを見下ろしている。胸元が大きくくつろげられており、よく張った乳房が今にも零れ落ちんばかりに顔を覗かせていた。
「八柄家家臣、杉谷治直と申します。この度、我が殿である八柄太郎次郎宗清、斎藤道山殿仇討ちの軍を起こし、逆賊義辰を召し取りましてございます。義起様には美濃にお帰りいただき、その後の始末を・・・。」
「いやじゃ。」
「・・・は?」
「いやじゃ、と申したのだ。今更、斎藤の家になどなんの未練もない。八柄の殿によろしく国を治め下されるよう、申し伝えておくれ。儂はいずれ、京に住み暮らす故な。」
『この女と』そう言いたげな視線を隣の女に差し向けると、女の方もにんまりと笑い、照れたように身を捩る。治直はそのやり取りに吐き気を催した。これが噂の「傾城」とやらなのか。治直にしてみれば、今すぐにでも切り殺したくなるような下品な女に見える。
「・・・では、国を治る御意思はない、と?」
「そう、申しておるではないか。用向きがそれだけなら、とっとと去ね。余が座敷に、血なまぐさい話を持ち込むことは許さぬ。」
自分に代わって逆賊を誅した人間の家臣に一言の礼も述べず、いかにも見下したような態度で「去ね」とは、どういう人間なのか。どうも道山の子供たちは、揃いも揃って道理を弁えぬ愚か者らしい。
治直は怒りよりも諦めの念の方が強かった。言われるまでもなく、こんなところからは早く立ち去りたかった。そうでないと、青山の前だろうが尾田家の城内だろうが、この二人を手に掛けてしまいそうだ。それは怒りではなく、憐れみの情から出た衝動だった。
無言で頭を下げ、襖を閉める。その途端に二人の含み笑いが聞こえて来る。
治直は青山に顔を見られぬようにしながら、やっとの思いで廊下に出た。
「・・・しかと、聞き届けた。御館様にも見たまま聞いたままをお伝え申す故、大手を振って斎藤家の所領を安堵なさるが良い。」
「・・・青山様には、ご承知のことでございましたか?」
「無論、確とはわからなんだが、半ばこうなるであろうという予測が付いたのは間違いがないな。」
「・・・それにしても・・・。」
「道山殿はまごうことなき英雄の血筋。だが・・・。」
「・・・だが?」
「その血を、残せなかったようじゃの。あの女・・・義起殿の妹だと言うが、怪しいものよ。まことのこととすれば、兄妹で睦みあっておるということになるが・・・。」
義起の妹、と言えば宗清と婚約をしながら病にて幼くして身罷った姫御子のことが思い浮かぶが、その妹が生きてあったのか。いや、恐らくはその事実を巧みに利用した寿の策の一部であろうが、治直は知らぬふりを通し、いかにもという風に頷いて、その場をやり過ごした。
「あの女は、色狂いで大飯食らいよ。だが、驚くではないか。手鏡の裏に黄金を忍ばせておったとかで、やたらと尊大な態度を取り始めたと見るや、義起殿もすっかりその気になってしもうた。我が家に逃げ込んで来た時には泣いて悔しがり、いつかは仇討ちをと意気込んでおったものだが・・・。」
「そのようなことが・・・。」
「うむ。侍女の話によると手鏡の裏にびっしりと黄金が敷き詰められておるそうな。それならば、兄妹二人、京で遊び暮らしたとて一生困るようなことにはなるまい。」
「いかさま・・・。」
「ま、そんなようなわけで、御館様も扱いに困り始めておったところに、この話じゃ。八柄の殿様が美濃を治めてくれるならば、早々に二人を京に追い散らして、それで終いじゃ。」
これで、本当に話がその通りに進んだのだから治直も今更ながらに寿と輩の者たちが張り巡らせた「網の目の細やかさ」に驚くばかりであった。聞けば聞くほどに、万事にそつがない。
この後、青山は見聞きしたことをきっちりと書状にしたため、尾田信英その人からの奥書きも得て、治直はその日のうちに美濃に帰参することとなった。せめて一晩は語り明かしたいと言っていた青山も、こうなっては引き止めもなるまい、と考えを翻し、快く治直を送り出してくれた。
「これは、御館様からじゃ。八柄の殿に、よろしくお伝え申してくれ。」
書状とは別の感状、黄金三枚、銀百貫、そしてそれらを乗せた馬が下賜された。これらは実の部分はもちろんのこと、尾田家からの「お墨付き」として、旧斎藤家の支城や近隣武将、国衆の説得に大いに役立つことになる。ここでも、朝廷からの官位が大きく物を言うのだ。
こうして、治直の尾田家への使者役は見事に果たされたこととなる。あとは一刻も早く因幡山の城に帰り、この旨を正式に報告した上で各方面への連絡を急ぐことになるだろう。
この冬は、そうした目の回るような忙しさで暮れてゆき、それとともに八柄家の運命の歯車も、ゆっくりとではあるが確実に、回り始めたのである。
「杉治は及ばざる籠とし」⑫
了。
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