小説「ぐくり」②
川口は、ちょうど目の前に止まっている円タクに乗ろうかとも考えたが、少しでも酔いを醒ますため、会社まで歩くことにした。道すがら、これからのことを考えてみても良い。
小一時間の道のりを、家路に向かう人の波をかき分けるように進んでみたが、特に良い考えも浮かばず、志津子の着物から垣間見える、艶っぽいうなじの白さだけが何度も思い出された。
『ちぇっ、俺もとうとうロートルの仲間入りかね。なんだって一回りも年上の、ママのことばかり思い出すんだ。』
普通なら、静江や悦子の、腕に残るいかにも重たげな胸の感触が思い出されるべきだろうが、その感触は性的な興奮よりも、むしろ子供の成長を喜ぶ親のような感覚の方が強かったのである。
『冗談じゃあない。今だって静江や悦子の一人や二人・・・なんだったら二人いっぺんにだって、満足させられるぜ、俺は・・・。』
強がってはみたものの、実際にそんな境遇になったとしたら、自分は逃げ出してしまうだろう、とも思う。川口は一人、自嘲気味に笑うと、会社の入り口を潜った。
狭い階段を昇り、記者室のある二階ではなく、資料室のある三階へと向かう。意外なことに、資料室の明かりはまだ点いていた。できれば誰かと鉢合わせするのは避けたかったが、今はそんなことは言っていられない。予備知識もなしで明日の夜を迎える訳にもいかないのは、至極当然のことだった。
「おや? こりゃあ珍しい来訪者もあったもんだ!」
声を掛けてきたのは、資料室長の近藤正文だった。元陸軍で従軍記者だった近藤は、中国青島でのドイツ守備兵との戦闘で、砲弾の破片を腰に受け、以降、左足を引きずるようになったという。元々は陸軍でも有名な「鬼教官」で、その戦闘技術においては陸軍でも屈指の存在だったと言うが、新兵として送り込まれてきた、某陸軍少将の息子にひどいケガを負わせてしまい、部署変更となったらしかった。
まもなく60歳にもなろうかと言う年齢だと聞くが、白い物の混じった髪の毛をきっちり七三に分け、いつも折り目も正しい茶色の三つ揃いを着用していた。左足が不具なので、ステッキを使用していたが、その動きは軽く、溌剌としていて、年齢も左足のことも他者に感じさせない。
除隊後に興洋新聞社で記者として活躍し、界隈では近藤のステッキの音が近付くと、「興洋の鬼が来た」と話題になるほどで、さらに写真の技術においては、撮影から現像までを見事な腕前でこなし、新人記者は、まず近藤から写真についての研修を受けることになる。
その、微に入り細を穿つ指導ぶりは多くの若者の心を鷲掴みにし、職を変えても近藤を慕って顔を出す若者は、少なくなかった。
要するに、人望においても仕事ぶりにおいても、川口とは真逆の人物、ということだった。実際、転職してきた時のあいさつ回り以来、廊下ですれ違って挨拶をすることはあっても、資料室に足を運んだことなど、ついぞない川口なのである。近藤の感想は、極めて簡潔で、適確だった。
「近藤さん・・・こんな遅くまで残ってらっしゃるんですか?」
「ははは・・・、まあ、キミは知らないだろうが、僕はいつも10時くらいまではここにいるんだよ。」
そう言って、パイプタバコを口に当てる。10時と言うのは、翌日の朝刊に間に合う、ギリギリ刻限の時間だった。つまり、それまでは会社に残り、誰かが掴んだ特ダネで必要になる資料や、近藤の知識経験を活かしてもらおう、という考えだろう。
「そうなんですか・・・。やっぱり、僕なんかとは、違うなぁ。」
「そんなことはないさ。現にキミだって、こうして遅くに資料室に足を運んだんだ。なにか、あったんだろう?・・・そういえば、とうとう山下に最後通牒を突きつけられたんだってなぁ。」
「・・・いや・・・お恥ずかしい・・・。まったく、その通りで・・・。」
「それで、記者魂というやつが燃え上がったのかい?」
「まあ・・・そういう訳でもないんですが・・・ちょっと面白い物を聞き込んだものですから・・・。」
それから、川口は近藤に志津子から聞いた一部始終を話して聞かせた。近藤はパイプをくゆらせながら話を聞いていたが、川口が話し終えると、無言で書架の方へ歩み去り、しばらくして両手に資料を抱えて戻って来た。ひどい跛を引いていたが、短い距離ならステッキを使わずとも歩けるようだった。
ドサリと机に置かれたのは、まさしく川口が求めていた日本鉄道と、代議士数名についての資料だった。
「すぐに出せるのは、これくらいだな。後は、地下の倉庫に眠っているのが少しあるが、場所を教えるから、必要ならキミ、取って来てくれたまえよ。」
「いや、これでおそらく間に合うと思います! ・・・それにしても、よく僕が必要とする資料が分かりましたね。」
「そんなものは、キミ! 今の話を聞けば誰だってわかるだろうさ! ・・・それとね、キミの感覚は、間違っていないと思う。僕もその話には、何か大きな裏があると思うね。」
「そ、そうですか!? それは良かった! 近藤さんがそう言って下さるなら、追い掛けてみる価値はありそうですね!」
「ははは・・・『下さる』は、良かったなぁ。僕もできる限り応援するから、キミ、がんばってみたまえよ!」
それから川口と近藤は、資料を読み込みながら、川口の利き込んできた話の裏付けを行った。数年前に上野から仙台までの路線を開拓した日本鉄道が、そこから先、青森まで路線を伸ばしたい、というのは、地方の労働力を東京に呼び込む、という狙いがあるらしかった。既に何度も会議が重ねられ、ある程度信憑性のある話として、投資家たちが動いているらしい。
また、名前の出てきた3人の代議士、柏谷善三、井上格三郎、竹谷時利は、いずれもその計画に反対を表明しており、仙台以北の東北へ鉄道を伸ばす前に、自分たちに縁のある土地へ鉄道を引きたいと切望しているフシがあった。
その3人が、日本鉄道の路線開発部長と東北に視察旅行に行く、というのは、最近とみにうるさくなった世人の目を、避ける意味合いがあるのではないだろうか。そして、人目を避けなければならない話をするつもりではないのか。
「うむ・・・。この事実だけでも、さっきの話は、プンプンと臭うようだねぇ。」
「・・・ええ。とにかく明日、うまいこと話を聞き出してみますよ。」
その時、壁の時計が12時の時報を告げた。
「やっ! すみません、こんな遅くまで・・・。」
「なぁに、構わんさ。これが仕事だ。僕はもう、ここで寝ることにするが、キミ、どうするね?」
「・・・そうですねぇ・・・僕も、泊まらせてもらおうかなぁ。」
「よし、じゃあ、こっちに来たまえ。」
そういって、近藤は先に立って資料室の奥、書架のさらに後ろに進んで行った。宿直室に泊まるとばかり思い込んでいた川口は、意表を突かれた形で近藤の後に続いた。
書架の後ろは、クリーム色のカーテンで仕切られた、4畳半ほどの小上がりになっていて、左側には押し入れもあり、ちゃぶ台と木製のキャビネットも置かれていた。
「さあ、上がって上がって。」
「こんなところに部屋があったんですね!」
「このビルを改築した時のゴタゴタに紛れてね、作ってもらったのさ。」
既に靴を脱いで小上がりに上がった近藤は、キャビネットからウィスキィのボトルとグラスを二つ取り出してちゃぶ台に置いた。
「僕は気楽な独身貴族だからね。仕事で遅くなるとよくここに泊まるんだよ。あいにくとつまみはないが、酒ならたっぷりとあるぞ。」
「すみません・・・。何から何まで・・・。」
「なあに、ちょっとした前祝といこうじゃないか。さ、上がりたまえ。」
それは25年物のロイヤルハウスだった。ほんのりと燻した木の香りのする、どっしりと重厚感のある味わいだった。
「こりゃあ、美味い!」
「はは、そうだろう? そこいらじゃ滅多にお目に掛かれない25年物だからな。実を言うと、山下からせしめたんだよ。アイツ、浮気がバレて細君に家を追い出されていた時期があってね。さすがに毎日宿直室と言う訳にもいかんだろ? そこで僕がこの場所を提供したのさ。その見返りだよ!」
「え、あの副編が、ですか?」
「ああ見えて、彼はかなりの恐妻家でね。家では娘にまでヘコヘコしてると言うよ。ま、人なんて色んな顔を持っている生き物だからなぁ!」
それから、二人は一時間ほど飲みながら話をして過ごした。近藤は、川口を高く評価していたらしい。若いのにしっかりとした裏付けの元に記事を書いているのが文面から読み取れて、好感が持てた、と言うのだ。引き抜きに際して社主から意見を求められた時も、口添えをしてくれたらしい。
「それが、どうだね! 移って来てからこっち、仕事らしい仕事はしていないじゃないか! ガセネタで降格されてからの記事なんて、読めたもんじゃあなかった。僕も社主から嫌味を言われてね、肝を冷やしていたところさ!」
そう言うと、近藤は豪快に笑った。そういった境遇を、むしろ心から楽しんでいたようだ。
「だが、これでキミも、新たな第一歩を踏み出せそうじゃないか! まあ、まだ喜ぶのは早いかも知れないが、僕は大きな可能性を感じるね!」
「・・・いや・・・ほんとに、申し訳もないです・・・。」
「なぁに、若いうちにはそうした経験も必要だよ! 男が一皮むけるためには、時に有頂天になって勢いのままに進むことも、ね。ま、キミの場合はそれがちと長すぎたきらいもあるが・・・。」
そう言って川口を見据えた目は、さすがは軍人上がりで、「鬼」の異名を取っただけのことはある鋭さで、川口はギョッとして首をすくめた。
「明日は、キミにとっても重要な一日となると思うよ。・・・おっと、もう1時を回ってしまったな! さすがにそろそろ、休もうか。」
川口が押し入れから二組の布団を敷き述べる間、近藤はグラスとちゃぶ台を片付けて、ネクタイを解いていた。近藤が布団に入るのを確認して、川口が灯りを消した。横になって今日の出来事を振り返った川口は、自分の身に降り掛かった不幸と幸運の狭間を、綱渡りしているような気持になった。この綱から、どちらに飛び降りることができるか。それが、明日からの数日間に掛かっていた。志津子と近藤と言う頼りになる味方もできたのだから、なんとしても幸運を掴みたい。川口は、天井の羽目板を眺めながら、そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠りに落ちていた。
「ぐくり」②
了。