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小説「杉治は及ばざる籠とし」③

3 陣太鼓
どぉん、どぉん、どぉん

翌日の昼九つ、雲一つない秋晴れの空に、八甲館で打たれる陣触れを告げる大太鼓の音が、三打ずつ、三度続けて響き渡った。

三再三点鼓(三度繰り返して三打音)は、「為下知参集」を意味する。
この音を聞いたならば、兵役に当たっている領民は全ての作業に優先して八甲館前庭に参集しなくてはならない。また、病やケガなどで参集ができない場合には、代理の者にその旨を届けさせなくてはならないことになっていた。

組頭以上の「御役」に付いている者については、大広間への参集が義務付けられているのだが、この時点ではまだ戦闘装備の必要がないにも関わらず、甲冑や武具などで物々しく着飾った勇士などが、早々と集まり始めていた。

「常在戦場」の姿勢を見せ、これから始まる戦で、一つでも手柄の立てやすい役割を振ってもらうための心がけであった。

その太鼓の数や打ち方を確認するために、領民の多くが作業の手を止め、屋内にいた者は軒先に現れ、屋外の者は天を仰いで耳をそばだてている頃、八千田集落の道を、調子はずれの鼻歌を大声で歌いながら飛び跳ねるように歩く一人の若者を見出すことができる。

垢と埃で薄汚れてはいるが、元は真白のものであっただろう小袖を、帯も締めず引きずるようにして羽織り、頭には麦わらで編んだ大きな帽子を被っている。その背には大きな空籠を背負い、小脇にも小振りの手提げ籠を抱えた若者が、口ずさむ鼻歌に合わせるようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら、どこへ向かうわけでもなく集落中を駆け回るのだ。

「あンれ、まぁた籠としが歌っとる。」
「陣触れというに、暢気なもんじゃのぅ。」

大根の収穫をしていた老夫婦がその光景を見ながら、こちらも微笑みを浮かべてのんびりと話していた。

してみると、このある種異様な光景は、ところの人間には日常の風景として受け入れられているらしい。

「陣触れと言うても、籠としにはわからんじゃろうからのぅ。」
「ほんに、若いのに気の毒じゃが・・・。杉谷様ンところも忙しゅうなろうに、大丈夫かのぅ?」
「まぁ、籠としが口に入れるくらいのものならば、儂らで面倒をみてやろうず。」
「おぉ、そうじゃのう、それがええ。」

ここ八千田の集落には、杉谷治直の居館が置かれていた。
元は養父である杉谷甚左衛門の屋敷を、そのまま治直が継いだ形となっていた。居館とは言っても、このあたりの他の家とさして変わらぬ造りで、違いと言えば十坪ほどの板張りの道場があるくらいのものだった。

未だ独り身の治直は、そこに小者二人と、老僕、そして数年前からこの白痴の若者と共に、この館に住み暮らしていた。

噂によれば、尾田軍滞在時にどこからか拾ってきたらしい。ところの人々は治直のこの行動に、最初こそ疑問を感じていたようだが、すれ違えば相手が農民でも気さくに笑顔で話し掛け、近在の老人が病に伏したとなれば自ら薬や見舞いの品を届けてくれる治直の優しさを、身に染みて感じていただけに「気の毒に思うて引き取ったのであろうよ」という長老である惣名主の言動もあいまって、集落をあげて様子を見守ることで話がついていた。

籠としの方もいつも同じ出で立ちで、大声で歌を口ずさみながら路傍の草や石ころなどを籠に入れて歩き回るだけのことで、人や動物に危害を加える訳でもなかったので、「無害で気の毒な若者」という認識がすっかりと根付いていたのである。

誰からともなく、この白痴の若者が屋敷の者たちから「とし」と呼ばれており、常に籠を持って歩き回るので、「籠とし」と呼ぶようになったのであるが、そこには侮蔑の響きよりも、愛すべき対象として自然に沸き起こったような響きが込められていた。

戦ともなれば、治直も小者二人も出陣となろうから、屋敷には老僕と籠としの二人だけ、ということになる。そうなった時は、治直が帰還するまでの間の食事や日常の世話は、近在の農民たちで面倒を見よう、という雰囲気になるのも、まったく不思議ではなかったのである。

そうした付近の人々の思いを知ってか知らずか、籠としは飛んでいる蜻蛉を追い掛けながら、道端を駆け過ぎていった。


同じ頃、八甲館には続々と兵役にある者たちが参集し始めていた。斎藤家の事変があってから今日まで、陣触れを今や遅しと待っていたような者もいれば、渋々ながら参集したような者まで、様々な顔ぶれが集まって来る。

大きく開け広げられた大広間には組頭以上の者が、それ以下の者たちは大広間に面した前庭に、到着順に着座させられる。

大広間奥の上座上段、宗清が着座するはずの場所は空席のままだが、その両脇を占めるように、向かって右に稲原と長山が、左に中山と治直が着座し、その様子を眺めていた。

大広間も前庭もいっぱいになり、入って来る人の波が落ち着いた頃、門前で出欠の確認をしていた長山配下の小者がするすると近付いて長山に耳打ちし、長山が大きくうなずいてから奥の間へと去って行った。

「御館様、ご着座にござぁる!」

間もなく、奥の間の引き戸を引き開けた小者が大声でそう呼ばわると、一同が着座のまま面を伏せた。その動きで、大広間全体の空気が揺れ、甲冑特有の金属音の混ざった衣擦れの音があちこちで起きた。

長山を従えて大広間に現れた宗清は、渋い藍染の小袖の上から錦糸で縁どられた緋色の陣羽織に、同じく濃紺の騎乗袴、頭には立烏帽子を被り、鉄扇を手にして現れた。

「皆の者、面を上げよ!」

宗清自らの発声で一斉に面を上げた一同は、目の前の主君の、どこかに幼さを残しながらも美々しい出で立ちに、驚嘆の溜息を吐いた。

「すでに存じ寄りの者もあろうかと思うが、儂は斎藤家の旧主道山殿の重代の交誼に鑑み、その魂に報いるため、軍を起こして逆賊斎藤義辰を誅することとした。これより軍令を下知する。各々方には善くその意を汲み、規律を厳にし、精々励まれよ。」

宗清の落ち着き払った宣言に、それぞれが気の入った答えを返した。
一呼吸置いた稲原が、宗清に一礼を送ってから立ち上がり、懐中の軍令書を開いて読み上げる。

「中山彦左衛門殿! 組下の三十名を率い、先陣を切るべし!」
「ははっ!」
「杉谷治直殿、春日重兵衛殿、堀三九郎殿は兵百名を率い、第二軍とする! なお軍将は杉谷殿。春日殿、堀殿を副官と致す!」
「応っ!」「ははっ!」
「続いて中軍。兵三百を、御館様御自ら率いられる。副官は鹿島甚一郎殿、奥山祐善殿、綱新右衛門殿、粕谷太次郎殿!」
「承った!」「応っ!」「はっ!」
「最後に、某が後詰として兵五十を率いるものとする! これ以降の者は全て長山兵衛殿の麾下に付き、仔細については追って沙汰するものとする。以上!」
「おおーーっ!!」

その様子を満足そうに見ていた宗清は、笑顔で大きく頷くと、中座して奥の間へと引き移る。これよりは名を呼ばれた諸将のみが大広間に残り、作戦の詳細について絵図面を確認しながら詰めていくことになる。

それ以外の人間については八甲館裏の練兵場に移り、飲食の提供を受けながら、自らがどの部隊に配属されるのかを確認するのである。

その「大移動」が滞りなく済むと、再び大広間に戻った宗清を加え、作戦の詳細について、時系列の進行に沿った説明がなされる。一通りの説明が終わった後に、懸念事項や問題点が討議され、修正され、最終的にこの場の全員が全てを確認すると、いよいよ作戦の実行となる。

この説明は治直が仕切ることとなった。乗馬鞭を用いながら、場所を指し示し、どの場面でどの部隊がどのように動くのか、詳細に渡って説明がされた。後日、この時の様子を治直と共に戦った堀三九郎がこう評している。

「いやはや、恐れ入った。まるで今起こっていることを見ながら話しているかのような、霧や風の具合まで考えた詳細な説明であった・・・。さらに驚いたのが、現地に赴くとまさに杉治殿の説明の通りにことが運ぶのだ。それこそ、霧や風の具合までがな・・・。ああいうのを、真の神算鬼謀と言うのであろうよ・・・。いずれにしても、おりゃあの時から、杉治というお人にぞっこん惚れ込んでしもうたわ。」

この話は、堀三九郎が他家に仕え年老いた後にも、酒が入れば必ず一度は口にのぼせる十八番話であった。時代が進んで「そんなことがあるわけがない」などと誰かが嘯くと、烈火の如く反論したと言うから、余程に驚き、杉谷治直という人物に心服していたのだろうことが窺える。

この軍議は半刻ほどで終了し、最終的な作戦開始は使者が斎藤方の返書を持ち帰り次第、ということになった。

八柄家では、斎藤家への「上納」が恒例となっている。
斎藤家の庇護を受けつつ家を保つための外交努力の一環であったが、その年に獲れた米、蕎麦などの農産物から、織物、銀、馬などの贈り物まで、本格的な冬の前に、礼物として届けるのだ。

今年は政変があったが、これからも変わらず関係を続けていきたいという意を込めて、例年のように贈りたいという旨の書状を、昨夜のうちに長山と稲原が苦心の上に書き上げ、今朝方早くに稲原の娘婿であり、義辰とも齢の近い稲原将監を使者として送り出していた。

必ず返書を持たせていただきたい、と書き添えてあるから、早ければ明日中にも、返書を携えた稲原将監が帰着するはずであった。

七つ刻には全ての隊での下知、細かな取り決めなどが終わり、八甲館にもいつもと変わらぬ静けさが戻っていた。

今日ばかりは八甲館に起居している長山を除き、全員がそれぞれの屋敷に引き取って身体を休めることとせよ、という宗清からの厳命であった。早ければ明後日にも開戦となる前に、家族との時間を取らせようという、宗清の配慮であった。

肝心の宗清にはまだ嫁がおらず、居室にて一人酒をちびりちびりと舐めながら夜を過ごしていた。斎藤道山の末娘との縁談が両家の父によって進められていたのだが、二年前にその末娘が病のために十二歳という若さで身罷ってしまい、破談になってしまったのだ。

それ以降は父も病に伏し、宗清が実質的な政務を執り行うようになったため、嫁探しどころではなくなって今に至る。

宗清には兄弟がないため、この戦で宗清に万が一のことがあれば、正統な跡継ぎは失われてしまう。父宗高の従姉弟に当たる宗重が存命で領内に住み暮らしているが、すでに隠居の身であり、宗重自体にも子がなかったので、跡継ぎ問題は八柄家にとっては喫緊の課題、ということになる。

中山や治直が宗清の参陣を進言出来ずにいた背景には、少なからずこの問題が頭にあったからだった。徹底した現実家である稲原が言い出さなければ、この作戦の帰趨はまさに中山と治直の双肩に掛かることになったはずだった。

だが、最終的に全軍を挙げて因幡山城を獲りに行くと宗清自らが決め、作戦は盤石の物となりつつあった。

中山率いる三十名が城門を破却して暴れ回り、そこに治直率いる百名がなだれ込めば、まず七割方は城獲りは成功裏に終わるはずであるが、宗清率いる中軍が、落とした箇所を守りつつ中山や治直の部隊を押し出すように展開すれば、成功率はグンと上がることになる。

中川、治直の率いる両部隊は、宗清の中軍が城内に入るまで、何としても時を稼がねばならない。治直の策の通り、搦め手の守将である羽賀虎三郎が内応に応ずるか敵となるか、事の成否はそのまま両部隊の生き残りを掛けることとなるは必定であった。

だが、治直は至って気楽に考えていた。
どちらにしても、為すべきことを為すだけである。

物心ついた時から、何とはなしに自分の命脈は、妙心寺の門前に捨てられたところで尽きたと思い込んでいた。今の生は、いわば命の余禄である。

その考えを育ての親でもある覚全に話すと、覚全は膝を打ち、心からの感動を持って治直の覚悟を称えた。それはまさに、仏の道を志す者が全てを投げ打ってでも得ようとする、悟りを開いたのと同じことだったのである。

「人が母の胎内よい生まれ出でてより、いずれ必ず訪れるのが死じゃ。それは大聖人だろうと卑賎の者であろうと、変わらず確実に訪れる。そのことをきちんと理解しておれば、この世の艱難辛苦など、どれも些末なことよ。」

そう言って、だからこそ、生あるうちは死を過剰に恐れず、常に持てる力を出し切って生きることにこそ注力せよ、と忠告した。その忠告が、幼き日の治直の心に、すとんと腑に落ちたのである。

ゆえに、戦場で敵に囲まれようとも、絶望的な死地に追い込まれようとも、普段と変わらぬ心持ちで事に当たることを得た。その心の余裕が、常に一筋の光となって道筋を示し、最後には奇跡的な生を得ている。

もっとも、それは話を聞いた周りの人間が思うことで、治直自身は必然の結果だと考えている。その時にしなければならないことをしたまでのことで、何ら特別のことはしていないのだ。

今、自身の居室で平服に着替え、刀の手入れをしている治直の心は、戦の直前にも関わらず興奮も不安もなく、いつもの通りに時が流れ去って行くだけのことだった。

治直の居室は、屋敷の一番奥まったところにある。その次の間は客間であり、その先の囲炉裏のある六畳敷に小者二名が、台所脇の板の間に老僕が眠っていた。

籠としは、治直の居室から延びる渡り廊下の先にある道場の、さらに脇に設えられた離れに起居していた。以前は道場に泊まり込みで修練に来る者の生活の場として使われていた部屋である。しかし、治直自身があちらこちらに転戦するようになって数年、この部屋を使う修行者はいなくなっていた。

治直は、手入れを終えた刀を大蝋燭の炎で透かすようにして眺め、その出来に満足して納刀した。一つ大きく息を吐くと、手燭に大蝋燭の火を移し、静かに渡り廊下へと続く濡れ縁を、道場の方へ歩み出す。

道場を回り込むように通り過ぎ、離れに入る引き戸の前に佇立し、その戸板を小さく二度、指先で叩いた。ほどなく、中から引き戸が開かれ、中の明かりが渡り廊下に漏れた。滑るように治直が離れに入ると、また音もなく引き戸が閉じられ、朝靄が辺りに立ち込める時刻まで、引き戸が開くことはなかった。

翌朝、朝餉の支度が整ったことを老僕である嘉助が知らせに来た時には、治直は自身の居室に戻っていた。杉谷家では、朝餉の席には籠としを除く全員が板の間に会し、一緒に食事を摂るのが恒例になっていたのである。

治直が板の間に現れると、嘉助も末座に着く。既に着席している小者の伊佐次と彦次郎から朝の挨拶を受け、治直が着座すると、嘉助の給仕によって朝食が始まるのだ。

「伊佐、彦、支度は進んでおるか?」

箸を進めながら、いかにも砕けた様子で治直が小者に言葉を掛けた。

「へぇ。支度と言っても、旦那様の言いつけ通り、いつでも出張れるようにしておりますんで、これと言って特別なことはしておりませぬが・・・。」
「伊佐の言う通りで。後は竹筒に水を汲んだら、いつでも出られますぜ。」
「よし。それでよい。この後、儂は出仕するがお主たちは残って馬の手入れを念入りに、な。それから伊佐、すまぬがお主は惣名主のところに赴いて、留守中嘉助ととしの面倒を見てくれるように頼みおいてくれ。」

伊佐次と彦次郎が無言のままで頭を下げ了承の旨を伝える。

「旦那様よぉ、籠としはともかく、オラぁまだ耄碌はしてませんよぉ」

老僕の嘉助が、籠としと一緒にされては困るとでも言いたげに、のんびりとした口調で抗議の声を上げた。

嘉助は籠としを気味悪がって、一緒に住み暮らしながらろくに話をしようともしない。籠としを引き取ることにした時も、最後まで抵抗を続けていたが、治直から、それでは雇を解くしかない、と言われて、渋々受け入れたのである。

「おう、嘉助の心配はしておらんよ。嘉助だけなら何のことはないが、としの面倒をお前が見てくれるかえ?」
「いんや、そりゃあ御免だ。おらぁ、アイツは気味が悪い。」
「そうであろう? だからこそ、名主様にお願いしておくのだ。だから嘉助は、儂らの留守中も離れに近付かなくて良い。母屋の火の始末だけは、しっかりとな。」
「はぁい。」

これで決まりだった。
やり取りを聞いていた伊佐次が、危うく汁を吹き出しそうになり、彦次郎に目顔で制された。

この三人は、いずれも養父の頃からの奉公であり、彦次郎の方が一回り年かさで、気難しいところもあるが、元は馬喰だったということもあり、馬の口取りや世話に掛けては人一倍詳しい。壮年期から老齢に掛かりつつあるが、頑健な身体を持ち、戦場で馬と共に駆け回っても見劣りするということがない。

一方の伊佐次は、調子のいい男ではあるが頭の回転が速く、世故に長け、いざと言う時の肝が据わっている。恩賞が少ないと思えば、治直を差し置いて、直接戦目付に抗議するようなことすらあった。

治直の槍持ちとして数々の戦場に赴き、冷静な判断力で倒すべき相手を見極める眼力を備えており、治直の手柄首の多くは、この伊佐次の進言を受けて打ち掛かったものであった。

食事が終わると、治直は準備されている膳部を手に、離れに向かう。
一椀の汁と香の物、小振りの握り飯が二つ。これを離れの入り口に置いておくと、あとは籠としが食べたい時に食べて、膳部を治直の居室前の濡れ縁に返しておくことになる。

伊佐次はこの辺りのことも含めて、うまく話をつけてくれるはずだ。格段の指示をしなくても、それに見合った銀を渡して、断られることのないように話を運ぶのだ。この辺りは年上の彦次郎にも嘉助にも真似のできないところで、治直が重宝している伊佐次の能力の一つでもあった。

治直がその膳部を離れの入り口に置いた時、またもや陣太鼓が打ち鳴らされた。

どどどどど、どどん。

というその音は、斎藤家へ赴いた使者が帰り着いた時に鳴らされることになっていた合図であった。予定よりも半日ほど、帰着が早いこととなる。

治直は静かに踵を返すと、そのまま草履を履いて八甲館へと足早に向かい始めた。


「杉治は及ばざる籠とし」③
了。



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