小説「杉治は及ばざる籠とし」⑥
第二章 開戦
1 喜悦
明朝寅の一点、与えられた部屋から一人忍び出た小助は、まずは菅井の居室を訪れた。
羽賀虎三郎もまた独り身のため、寝所には一人で寝んでおり、その控えとも言うべき一間が菅井の居室となっていた。
そっと襖を開くと、さすがに菅井は布団から跳ね起き、枕元の刀掛けにある短刀に手を掛けた。同じ刀掛けには太刀も鎮座していたが、狭い室内では取り回しの利く短刀の方に分がある。瞬時にその分別のつくのが、武人として菅井が優れている証拠である。
「なにやっ!・・・や、小助ではないか・・・いかがしたぞ!?」
驚きの表情で襖の前にひれ伏している小助に声を掛けつつも、短刀から手は離さない。当然の用心と言えた。
小助は無言のままで襟元を引き裂くと、細い油紙に包まれた密書を取り出し、静かに菅井の前に差し出した。
怪訝な面持ちでその動作を見守っていた菅井は、ひたと睨みつけるように自分から目を離さない小助の、いつにも増して真剣な表情に、ようやく事態を飲み込んだ。
「・・・これをご覧に入れろ、と申すか。今でなければならんのじゃな?」
「御意。」
間、髪を入れずに発せられた低い声に、菅井は短刀から手を離し、細く巻き絞められた密書を取り上げ、小助をそのままに虎三郎の寝所に至る襖の前に腰を下ろした。
「殿・・・。火急、お知らせしたき儀が・・・。」
「構わぬ、入れ。」
すでにここまでのやり取りで目を覚ましていたらしい虎三郎からも、はっきりとした返答が返ってくる。菅井が襖を大きく引き開けると、布団の上で短刀を抜き払い、膝構えに座している虎三郎の姿が目に入った。
小助は以前として同じ位置でひれ伏し畏まりながら、気配で奥の様子を探ろうと気を張っていた。下手をすれば、今この時にも自らの頭に刃が振って来てもおかしくないほどの非礼である。だが、まだ死ぬわけにはいかない。そういった場合でも、必ず逃げ出さなくてはならぬ。
カサカサと紙を開く音がした後、冷気を感じる程の沈黙が周囲を覆った。それでなくても一日のうちで一番「音の無い」時間帯ではあるが、今は静寂の中に冷たい緊張が混ざり、耳の中でキーンと音が聞こえる程に静まり返っていた。
「・・・小助・・・これは・・・ここに書かれてあることは、まこと、相違ないのだな?」
虎三郎の声は、微かに震えていた。
「御意。」
小助はさらに頭を低くし、小さくだが、はっきりとそう答えた。
「では、まもなくこの城が戦場になる、と、こう申すのだな?」
「御意。」
「この筆跡は疑いようもなく治直様の物だが、これは治直様が独断で為さることか? それとも八柄の殿の御諒解を得てのことか?」
「八柄宗清、本人の思いにござる。」
「よろし!」
室内の空気が、大きく震えるような大音声だった。それは、声を当てられた小助が、思わず反射的に頭を上げてしまう程のものだった。
「まさに、まさに我が意を得たりや! 羽賀虎三郎、これより八柄宗清殿にお味方致す!」
厳かに、いかにも興奮を抑えた声音で虎三郎が言い切った。その声が僅かに震えているのは、心から湧き上がる喜悦を雄弁に物語っていた。
虎三郎は手にした短刀を右手の親指にあてがうと、小さく親指を切り裂き、その流れ出た血をもって密書に爪印を捺し、菅井に手渡した。それが菅井の手を通じて小助に戻される。
「開戦までは二刻とあるまい。菅井、急ぎ具足の準備じゃ。それからな、屋敷中の者を叩き起こして番頭を全員、戦支度で参集させよ。決してお城に気取られてはならぬ。急ぎながらも秘して事を運ばねばならぬぞ。よいか? よいな?」
虎三郎はそこまでを一気に話すと、居ても立っても居られない様子で寝間着を脱ぎ、着替えを始めた。
菅井も気を取り直したかのように寝間を出て行ったが、小助の脇を通り抜ける際、一瞬立ち止まってその肩に手を置き、破顔一笑、力強く頷いた。菅井もまた、喜びに打ち振るえているのがその手から伝わった。
「小助! すまぬが着替えを手伝ってくれい! それが終わったなら賄方に声を掛けて飯を炊かせろ。よいな!」
もうこうなると、小助が誰の家来かもお構いなしの様子だった。火の気のない室内はひんやりとしていたが、着替えの手伝いのために虎三郎に近付くと、湯気が出ているかのような熱気が、小助にも伝わってくる。
「いよいよじゃ。儂はこの日を夢に描いておったが、まさかこのように早く夢が叶うとは思わなんだ! まさかに、夢ではあるまいな? それしにしても八柄の殿も思い切ったものよな! だがそれでこそ、じゃ。 儂もこれでようやく大殿に顔向けができるわい! 愉快じゃ! 痛快じゃ!」
小助に語るとも、独り言とも取れる言葉をうわごとのように繰り返しながら、虎三郎は豪快に笑った。世の中には「戦狂い」と言う病があると聞くが、今の虎三郎がまさにそれではないか。小助は急に不安になってきた。
2 増上慢
「殿・・・。八柄家の特使が、城門前にて開門を待っているようです。」
斎藤義辰が髪を結い直しながら家老と打ち合わせの最中に、小姓の一人が城門番からの報告を伝えにきた。
「なに? まだ開門はしておらぬのか?」
「・・・それが、特使から開門の要請はございませぬ。こちらから問い掛けましたところ、勝手に早く到着したまでのことで、開門の刻限まで待つ、と、このように返答があったと・・・。」
「・・・ほう・・・。」
義辰は青黒く浮腫んだ顔を引きつらせるようにして薄く笑った。
「殊勝な心構えでございますな・・・。八柄家も、殿の歓心を買おうと必死のご様子・・・。」
その表情を見て、家老の後藤内膳が露骨に追従する。
八柄家から送られてきた書状は、それはもう憐れみを催すほどに諂った内容で、とにかく今後も斎藤家の庇護下で事なきを得たいを思う心情が、ありありと見えるものだった。
斎藤家の従属豪族の中でも古くからの家柄で、そこに大きな差はあれども、美濃では斎藤家に次ぐ勢力を持つ八柄家のそうした態度は、義辰も後藤も大いに気を良くしたものである。
何より道山との繋がりも深い八柄家の動静が、二人にとっては侮れない要因として常に目の前にぶら下がっていたのだ。美濃の一郡を持つだけの小国ではあったが、団結した力を発揮して実りも多く、家臣団も優秀だと評判だった。お互いの本拠が近いのも、気になった。
その目の前で視界を塞ぐようにしていた懸念事項が、この書状で胡散霧消したのである。そればかりではない。この進物を携えた特使派遣の速さ、そしてその神妙な態度、どれも何とかして義辰の気を引こうと必死なのが伝わって来るではないか。
使者が帰着する前に進物の準備をしていなければ、ここまで事は速く運ぶまい。どの家よりも早く、祝いの品を届けたいと言う、気の毒に思えるほどの弱腰が、そこからもわかる。
その安堵感も手伝って、二人のこの慢心を生み、見下したような憐れみの笑みを生んでいた。
後藤は、義辰が斎藤家の当主となってから家老に引き上げられた。義辰の守り役を務めた切れ者であったが、それ以上に野心家であった。
道山時代の閣僚は、義辰が当主になると同時に罷免され、すでに家族ともども城を出た者もあれば、牢に繋がれた者もいる。だがその多くは、道山殺害のどさくさに紛れて、すでにこの世の人では無くなっていた。
そうしてその後釜に、義辰派の人間が据えられたのである。
割を食ったのは、城内で行われたごく小規模な戦闘に参加できなかった面々である。数々の出城を守っていた守将や、すでに下城していた者は、何の異変にも気付かないまま、仕えるべき当主が入れ替わってしまったのだ。
当然のように、異議が噴出したが、多くの者が権力を有した後藤の手に掛かり、ある者は懐柔され、ある者は罷免され、その苛烈な仕置ぶりは、傍で見ている人間の肝を凍らせるに十分のものであったため、僅か三日で、そうした声も聞かれなくなってしまった。
羽賀など、武は誇るべき物がありながら、そうした政治の世界とは無縁の若武者達は、担ぐべき重臣たちが次々と消えて行き、鬱屈した思いを抱えながらも押し黙るより他はなかったのである。
そうなると、義辰も後藤も、いよいよ大いに慢心をした。
毎日のように酒宴が催され、城中に旅芸人までが招き入れられた。
「どうやら、城下の者たちに紅白餅を配りおるとか・・・。」
報告に来た小姓も、負けじと嫌な笑みを浮かべた。よく見れば、義辰のいかにも好みそうな、ふっくらした面立ちの年若い小姓である。君主と家老の話に割って入るとは、余程に気脈を通じていると見て間違いなかった。
「まあ、紅白餅?」
その時、義辰の髪を梳いていた女が声を上げた。
その声を聞いて、報告に来た小姓が露骨に嫌な顔をした。
この女、「巫蝶」と言う城下に来ていた旅芸人の座長であり、いわゆる下賤の者であったが、その淫猥な舞に骨抜きにされた義辰が、特別に請うて褥を共にした女である。
女は、当初は嫌々ながらと言う風情で寝所に入ったものの、いざ褥を共にすると、あられもなく声を上げ、義辰が今までに体験したことのないような性技で義辰を翻弄した。
それは三日三晩続き、時には日も高いうちから寝所に籠ることもあった。この酒色に溺れた三日間で、義辰はげっそりと痩せ、目だけが爛々と輝きながら、顔は青黒く浮腫んでいる。その行為がどれだけ激しいものであったかは、誰の目から見ても明らかだった。
小姓は、その義辰の顔にはっきりと男女の営みに対する疲れを見出し、髪を梳かせるまでに心を開いた義辰と、殿様の心を奪った素性の知れない女に激しく嫉妬したのである。小姓は、色小姓であった。
「なんだ、巫蝶は餅が好きなのか?」
「いえ、とくだん好き、という訳ではございませんが・・・桃色の餅は、何やらかわゆげではございませんか?」
「そうかそうか、かわゆげか。なるほど、もっともじゃ。これ、藍丸。すぐに開門し、特使を招き入れよ。それと、その紅白餅とやらを、な。」
藍丸と呼ばれた小姓は、さも憎々し気に巫蝶を睨み据えると、無言のままで退室して行った。
「おお怖。男衆の悋気は、恐ろしおますなぁ・・・。」
いかにも使い慣れた感じの京言葉でそう言った巫蝶の口元に、残忍な笑みが浮かび上がった。それを見た後藤は、そこに妖しいまでの色気を感じて、思わずぶるっと身震いをした。こんな笑みを義辰が見たら、また寝所に戻ると言い出しかねない。
それは後藤が年甲斐もなく思わず勃然としたほどの、凄まじいまでの色気であった。
3 来中山
因幡山城の城下町に、美々しいまでに着飾った隊列が、鼓笛の音を交えながら現れた。先頭を行く立派な体格の黒馬に跨った老兵は、明るい朱色の甲冑に身を包み、その背には、この隊列が斎藤家への進物を運ぶ特使であることが書かれた幟を差している。
警護のための小規模の軍も、それぞれ朱色の甲冑に色とりどりの吹き流しや母衣を取り付けた見目麗しいものであり、荷を運ぶ馬や車までが、きらびやかに飾り付けられている。
何事かと見物に現れた町の人々には祝意とともに紅白餅が配られ、町民は口々にその美しさを褒め称えた。
「こういう行軍も、悪くないのぅ!」
馬の口取りをする小者にこうした軽口を利けるほどに、中山は上機嫌であった。何より戦が大好きな上に、無類のいたずら好きでもあるこの老将は、こたびの作戦が大いに気に入っていた。
もっとも、中山にしてみれば、こんなのは戦のうちには入らない。せいぜいが、思い上がった生意気な餓鬼に拳骨を食らわしてやるくらいの勢いなのだ。その拳骨一発に命を賭ける、と言うのが、また堪らなかった。
こうしてゆるゆると城下を抜けた中山ら一行は、開門前の因幡山城の城門前に整列すると鼓笛の音を止め、毛羽立った装いを特使にふさわしい厳粛な物に改めて、開門の刻限を待った。
途中、城門番から声を掛けられたが、からりと笑った中山は「早く到着したのは我々の勝手でござる。お気遣いは無用。」と返答を返した。どう扱ったらいいものか窮した城門番が上役に事情を伝え、最終的には義辰の耳にまで報告が上がったのである。
この特使の列は、それほどまでに異質なものだったのは言うまでもない。
そしてこの城下の騒ぎは、農民に扮した兵の動きによって次々と報告がなされ、治直の部隊まで報じられている。その後は、中軍率いる宗清を経由して、最終的には八甲館までもたらされることになるだろう。
今の治直の位置から城門までは、一駆けに駆けておよそ四半刻というところだ。そのために、治直率いる第二軍は騎馬兵が多く編成されている。合図があり次第、駆けに駆けて城門を目指すのだ。
同じ頃、羽賀屋敷の大広間には十名の鎧武者が集まっていた。この番頭の下にそれぞれ十名程の部下がいることになる。十名とも、なぜこの時、軍装で大広間に呼び出されたかを知る者は一人としてなく、そこかしこで様々な憶測がなされていたが、そこに開け放した濡れ縁から、足音も高々と甲冑を着込んだ羽賀と菅井が現れた。
「御一同、さぞや不審に思うておろうが、これは訓練などではない。間もなく、表門に八柄家の軍勢が現れることとなる! 我々、搦手門を守る羽賀一党は、この八柄家に味方し、逆賊斎藤義辰を討つために蜂起することとした!」
菅井が口火を切ると、大広間に「おおっ!」というどよめきが起こった。
そのどよめきが収まらぬうちに、虎三郎が語を継いだ。
「みなみなには、それぞれに思うところもあろうかと思う。これから儂が行うことは、卑怯の誹りを免れないこともまた事実である! それを潔しと思わぬ者は、黙ってこの広間を出て行ってよい! この事実を城側に注進したいと思う者あれば、それもまた構わん! 己が信ずる道を行けぃ!」
それだけ言うと、菅井と共にくるりと背を向けた。
しばし、それぞれが語るに任せる時間を与えよう、というのである。
だが、その意に反し、大広間の一同は一語も発することなく、静かに座して再び羽賀の口が開かれるのを待っていた。
たっぷり百を数えてから、羽賀がくるりと振り返り、大広間を眺めまわした。そこには変わらず十人が、そのままの姿で座している。
「良かろう! ならばこれからも、我々は一蓮托生である! 当面の我々の役目は、いつもと変わらず搦手門を守ることにある! だが今回は、内の敵を外に漏らさぬのが役目となる! 搦手門からは、誰一人として外には出さん! よいなっ!」
「応っ!」
十人が一つの声を上げた。それぞれが立ち上がって動き出す。
既に前庭にそれぞれの部下が集まり始め、炊きあがったばかりの飯で出来た握り飯で、腹を満たしていた。
その握り飯を握る人の列に、汗みずくで立ち働く小助の姿があった。
因幡山城の天守で、開門を告げる陣太鼓が打たれた。
ゆっくりと城門の大木戸が開いて行くと、集まっていた観衆から大きな歓声が上がった。
これから起こることを考えれば、一刻も早く城門前から立ち去って欲しいという思いはあったが、それを口に出すわけにもいかない。中山はこの友好的な雰囲気が殺伐としてしまうのは惜しい気もしたが、大事の前にその思いを打ち消し、背筋を伸ばした。
城門が完全に開き切り、小者二人を従えた接待役と思われる裃姿の若者が現れた。中山は、それが知っている顔でなくてホッとした。何度も因幡山城を訪れているだけに顔見知りも多く、その人間を騙し討ちに掛けるのは、さすがの中山にも気が引けていたのである。
中山は馬からひらりと飛び降りると、深々と一礼をしてから来意を告げた。それを受けた若者が左脇に退き、道を開ける。
さも当たり前のように、中山がまた馬に跨った。
本来であれば有り得ることではなかったが、迎えに出た若者がそれを咎めることはなかった。
一つには、そもそも下馬の礼儀を弁えぬ若者であったということもあるが、中山のあまりに自然な動きに、不審すら覚えなかったと言うのが本当のところかも知れない。
こうして至極ゆるゆると、中山は騎乗のままで城門を潜り、警備を従えた荷駄の列もそれに続いた。
八柄軍の因幡山城獲りは、いままさに、始まったのである。
「杉治は及ばざる籠とし」⑥
了。
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