「敵 -KATAKIー」
数舜前、自分が斬り斃した男の脱ぎ捨てた羽織を拾い、刀の血糊を丹念に拭き取った。
その間も、耳目は抜かりなく裏街道を囲む鬱蒼とした木立に向けているが、風に吹かれる木の葉ずれの音を除いて、他に気配とてない。
どうやら二度目の襲撃も、乗り切った。
俺は、斬り合いで裂かれた自分の編笠を取り去ると、別の男が付けていた塗傘に手を伸ばし、具合を直して被った。
「ご家老も、必死のようだな・・・。」
足元で息絶えている月代の剃り跡も青々しい若侍の、苦悶に見開かれた両の目に視線を落としながら、そう呟いた。
この若侍は平賀兵馬。
大前藩家老職、平賀兵左衛門が四十を過ぎてもうけた愛息で、齢はまだ十七、八だったはずだ。
残り三人の死骸のうち、二人は見覚えがある。
御城下で剣術道場を開いていた道場主と、その高弟だ。
もう一人は見知らぬが、面立ちが道場主に似ているところからして、血縁の者なのかも知れない。
目に入れても痛くない息子のために金で雇ったのだろうが、所詮は道場剣法、実戦で慣らした俺の相手では、なかった。
顔に泥を蹴り上げられ、「卑怯!」などと騒いでいるうちは、命のやり取りなどせぬことだ。
俺、剰水泥門は、大前藩にとっては主殺しの大罪人だ。家老が無謀と知りつつも、息子を追手に差し向けなければならないだけの理由がある。
だが、俺にも主君を手に掛けるだけの理由があったのだ。
天下の大法を犯しつつ、恥を忍んで生き続けなければならない理由も。
その一事を成し遂げるためならば、神でも仏でも、この手に掛けよう。
鬼にも修羅にも、喜んでなろう。
そして事を成し遂げたならば、その場で立ち腹を切り、自ら恥辱を雪いで地獄へと赴くのだ。
今は亡き妻と、顔すら見ることの叶わなかった子供には、二度と会えぬ死出の旅路だが、悔いはない。
無造作に転がる数箇の死骸に左片合掌で短く念仏を唱えると、俺は再び評定所のある江戸に向けて、歩を進め始めた。
つづく。
(本文800字)