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小説「冬の桜」 ①

胸の真ん中に釘でも刺されたような、激しく鋭い痛みが走って、私は右手で胸を掻きむしりながら、前のめりに倒れるように屈みこんだ。

体中から瞬間的に血の気が引いて、顔や頭がものすごく寒い。というより、氷でも当てられたかのように冷たく感じる。そのくせ、背中や胸を汗が伝うのも感じている。

誰かに助けを求めようとしたが、声を出すどころか呼吸ができない。
懸命に酸素を取り入れようと、金魚のように口をパクパクしてみるが、肝心の空気がどこにもなくなってしまったように感じた。

『これが、死ぬってことなのか』

他人事のように、そんな考えが浮かんだ。
その刹那、私の視界は真っ暗になった。




喉の渇きを覚えて目を覚ますと、リノリウムの張られた天井が見えた。

『あらいやだ。こんな無粋な内装、頼んだ覚えないわ』

身体を起こそうとして、右を向いた時に、見慣れない機械がたくさん目についた。

『あ、そうだ。』

そこで、思い出した。

叔母の葬式に出席したついでに温泉宿に宿泊して、そこで私は倒れたのだ。
ここは、運び込まれた病院ということだろう。

あの時はもう死ぬかと思ったが、どうやら命は取り留めたらしい。
良かった。まだ、死ぬわけにはいかない。


「あら、目覚めましたね! ご気分どうですか? ここがどこか、分かりますか?」

左側から声を掛けられ、そちらに向き直ろうとして胸にまた鋭い痛みが走った。咄嗟にまた同じことが起こるのかと覚悟したが、今度はゆっくりと痛みが引いていき、やがて消えていった。

「・・・どうやら、大丈夫のようです・・・。ここは、病院・・・?」
「そうですそうです。ご自分のお名前と、お年は言えますか?」
「・・・永山、祐子です。・・・69歳。」
「はい! 大丈夫のようですね! 今、先生を呼んできますからね!」

そう言って、若い看護師は去って行った。
やがて訪れた、これまた若いまるで学生のような医師から、自分が温泉宿で倒れてから丸一日が経過していること、心臓発作を起こして緊急のカテーテル手術を受けたことを説明された。

「経過を見ながら、一週間ほどは安静にしていただきます」

他に質問はないか? と尋ねられたが、執刀医でも専門医でもない、たまたま当直に当たったインターンの医師に何を聞いても始まらないと思い、私は首を横に振った。

一人になって冷静に周囲を見回すと、どうやらここは病室ではなく、集中治療室のようだった。三方を覆っているプラスティック製のカーテンは、上下のレールで容易に開放できるようになっているらしい。半透明でうっすらと隣の様子もわかる。

この状態は、私には耐えられない。必要以上に人目につくのは嫌いなのだ。入院はやむを得ないとしても、一刻も早く個室に移りたかった。

そうだ、半日も連絡が取れていないなら、みんなさぞかし心配していることだろう。何とか連絡を付けなくては。こちらはすぐにでも何とかしないと、取り返しのつかないことになりかねない。

そんなことを考えているうちに、胸の動悸が激しくなるのを覚えた。
そして私は、また気を失うように眠りに落ちた。


次に目が覚めた時、今度は目覚めた瞬間からスイッチが入っていたかのように意識がはっきりとしていた。いつもの目覚めと変わらない。

『そうだ、連絡』

すぐにナースコールを押して、看護師を呼び、連絡を付けてもらいたい人間を伝えた。だが、秘書も会社も、肝心の電話番号がわからない。いつもリダイヤルで掛けているのが裏目に出た。

「私のスマホは、どこにあるんでしょう?」

そう尋ねたが、救急車で病院に運ばれた時、身に着けていた物以外は何もないと言う。それもそのはず、私はその時、宿の温泉に入ろうとタオルだけを持って大浴場に向かっていたのだ。

「こちらで旅館に問い合わせてみます」

そう言った看護師を見送りながら、私は久しぶりに心細い思いを感じていた。仕事については、先の先まで見通して判断をしていたのに、自分の足元の部分がいかに疎かになっていたのか、痛感させられた。


長い長い一時間が過ぎた頃、背の高い同年代と思しき男性が、看護師と共に現れた。

「永山さん、こちら、通報して救急車に付き添ってくれた旅館の従業員の早田さんよ。お部屋のお荷物を運んできてくれたの。確認、できそうかしら?」
「それはそれは、このたびは・・・」
「いやいや! お気になさらず! それより、回復されて良かったですよ。おかみから、お部屋のお荷物を預かっておりますので、確認を・・・。」

「早田」と紹介された男性は、私の言葉を遮るようにし、いかにも忙しそうな素振りを見せた。他の仕事を残してここに来てくれたらしい。

私は看護師に手伝いをしてもらいながら、ボストンバッグとハンドバッグの中身を確認した。パソコン、財布、スマホ、アクセサリー類に至るまで、きちんと揃っていた。

クローゼットの移したはずの洋服や、洗面所に置いた化粧品まで、丁寧に畳まれ、また旅館の名前の入ったポーチにまとめられて入っていて、荷物をまとめてくれた方の人柄を感じさせてくれた。

「はい、大丈夫です。間違いなく、すべて揃っています。」
「そうですか! それは良かった・・・。あ、それから、おかみから今回のお代は結構です、との言伝がありました・・・。次回、こちらにお出での際には、またご指名を頂いて、その際に今回の分も合わせておもてなしをさせて頂きたい、と。」
「まあ・・・。何から何まで、過分のお申し出、ありがとうございます。それでは、今回はそのように甘えさせていただいて、次回を楽しみにしております、とお伝えください。」

私がそう言うと、一瞬のことだったが、早田さんは意外そうな顔をした。
あえてそれには気付かないフリをして、その場を終えた。とにかく、早く連絡を取らなければならない、と言う思いだけが、私の脳裏にこだましていた。



スマホには45件の着信があり、LINEやメールの数を示す赤い丸の中には、三桁の数字が表示されていた。やはり、私がいないと会社はうまく回らないのだろう。こういうことになった以上、早急に善後策を構築しなければならない。

そんなことを考えながら秘書に電話を掛けると、ワンコールで秘書が出た。


「社長! どうされたんですか! どうやっても連絡がつかなくて・・・」


かなり動揺していたのはわかったが、仕事への影響は最小限で済んだようだった。私は何となく拍子抜けしてしまい、こちらに向かうと言う秘書を押しとどめ、緊急の場合のみ連絡をするように伝えて通話を終えた。

十数分の会話だったが、息が上がり、動悸が激しかった。
深呼吸を繰り返して呼吸を整えながら、「会社にとっての私」を考えてみた。

今は、この8畳くらいの、ろくに仕切りさえされていない集中治療室の一角が私の世界の全てだったが、競争の激しい美容業界で起業して、一代で12桁決算のグループ企業にまで育て上げたのが私だった。

世界中に支社があり、従業員は延べ数万人、期間従業員まで含めたら、その数はさらに膨れ上がるだろう。積極的に露出していた訳ではないから、ここではただの「初老の女性」だが、業界ではかなりの有名人だった。

『私がいなければ、どうにもならない』

そう思い込んでいたのは自分だけで、私がいなくても会社は回っているし、株価も順調に推移していた。


なんだか急に、全てがどうでも良くなった。
アパートの一室で一人で事業を始めてから、40年以上、ただひたすらに突っ走って来た。

だが、こうやって立ち止まって見ると、「自分には何もない」ことに気付かされた。

ろくに人つきあいもせず、当然、伴侶も子供もいない。
趣味らしい趣味もなく、仕事以外に生きがいを見出してこなかった人生だった。

しかし今、その「唯一の生きがい」であった会社まで、もう私の手を離れていたことがわかってしまった。



そのまま横になり、目を閉じて、ひたすらに呼吸を整えた。

どのくらいの時間が経ったのか定かではないが、再び目を開けた時、私は決めていた。

『引退する。残りの人生、今までの分、楽しむ。』

来月には70歳になるし、こうなったのも何かの運命なのかも知れない。
諸々の引継ぎに、まだしばらくは掛かるだろうが、遅くても来年の今頃には、スマホもパソコンもない生活を送っているようにしよう。

まずは身体を回復させなくてはならない。
少し話しただけで息切れと動悸が起こるのは、術後の一時的なものなのだろうか?

考え出すと、次から次へと疑問が湧いてくる。
たぶん、これは身体によくない。だから、「やりたいこと」を考えることにした。

あと10年、生きられると仮定して、それまでにやりたいことを挙げていった。

ハワイの「あの木」をもう一度見たいし、「赤毛のアン」の島にも行ってみたい。月には行けそうもないが、南極くらいならまだ間に合うかも知れない。

読みたい本もたくさんあるし、観たい映画もたくさんある。
そうだ、相撲とプロレスも、生では見たことがない。

なんだかワクワクしてきた。
ふと気が付いたら、自然とニヤニヤしてしまっていた。

いつの間にか呼吸は収まっていて、あちこちから聞こえる規則正しい電子音とチューブから酸素が出てくる時の音だけが全てになった。

起きていてもやることがないので、私は妄想に浸りながら、また眠りの世界に戻ることにした。

寝れば寝ただけ、回復が早くなるような気がしていた。


「冬の桜」①
了。



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八神 夜宵 |小説家
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