小説「杉治は及ばざる籠とし」⑤
6 蠢動
治直が、集落の皆の見送りを受けつつ晴々と屋敷を出立したその時刻、見送りに出なかった籠としの姿を、まったく別の場所に見出すことができる。
揖斐川のはるか上流、徳山湖を眼下に見下ろす奥深い山の中にある、打ち捨てられた樵小屋。その、屋根も壁も朽ち果て、もはや森の一部と化す寸前のあばら家に、籠としはいた。
いつもの白装束は籠の中にきちんと畳まれており、細く小さな体をくすんだ臙脂の単衣に包み、昔は囲炉裏であったであろう切り込みの前で、静かに佇立している。
と、何の変哲もなかったように見えた板敷の一部が、ほんの微かに持ち上がった。数舜の間を置き、さらに上がった板敷の下に細い石階段が見え、そこに目だけを出した覆面姿の小男が現れると、籠としに目配せをして引き下がる。
籠としは無言で進み出ると、その石階段を降り、同時に板敷も元に戻された。樵小屋に残るのは森の囀りと、白装束の入った薄汚れた手提げ籠だけとなった。
灯りのまったくない、真の暗闇となった細い石階段を、籠としが降りていく。大きく左に曲がりながら降りたその先に、木の柱と梁で補強された、土がむき出しの部屋があった。壁のあちこちから、木の根や大きな石塊の一部が飛び出している。
降りてきた石段の反対側の壁には、人ひとりが屈んで通れそうな穴がぽっかりと口を開けているところを見ると、他にも出入口が設けられているらしい。
三坪ほどの、ごく小さな部屋が二つ。部屋の境目に、目の粗い網が吊り下げられており、そこに干した魚や肉、大小の麻袋などが紐で結びつけてあった。奥の部屋には木箱や葛籠が置かれていて、壁の一隅にはこの部屋の唯一の灯りである蝋燭が一本、頼りなげに灯っていた。
先程、板敷の隙間から姿を現した小男の他に、同じ出で立ちの人影が五つ、籠としを含めると七人の人間が、この地下の狭い空間に会したことになる。籠としが姿を現すと五つの影は集まって蹲り、揃って頭を下げた。案内に出た小男がその列の端に加わり、同じように蹲る。
「スィンゴッ」
蹲った影の中央にいた者が頭を上げ、何事かを呟いた。
その言葉は、異国の物とも、古の物とも取れるような不思議な響きがあったが、いずれにせよこの地方で使われている一般的な言語でないのは明らかだった。
年老いた男の声のように、掠れて聞こえるその言葉は、一節ごとに短く区切られ、ゆっくりとだが力強く、まるで間違いを犯すことを恐れ、慎重に話しているかのように続けられた。
一通り話が終わると籠としは微かに頷き、併せて五つの人影に近付いて、それぞれの耳元に囁くように小さく、短く、何事かを告げた。その耳打ちが終わるや否や、一人、また一人と壁の穴に吸い込まれるように消えていく。
最後に残った中央の年老いた声の持ち主には、奥襟の合わせ目から取り出した紙縒りを手渡す。渡された男が紙縒りを開いて一読すると、右手で覆面の口元を下ろし、すぐさま口の中に紙縒りを放り込んで飲み込んだ。口を大きく開けて、確実に飲み込んだことを籠としに示す。
下げた覆面の下からは、白い物の混じった髭を蓄えた、皺深い男の顔が見えていた。そのがさついた肌は、陽に焼き尽くされたかのような赤銅色だった。
籠としは、小さな頷きをもって答えると、その男も頷き返し、同じように壁の穴に消えて行く。
最後に残った籠としは、静かに蝋燭に近付くとその小さな炎をフッと吹き消した。火が消える瞬間の輝きに照らし出された籠としの顔は、汗と埃に薄汚れてはいたが、普段見せている白痴の顔とは打って変り、いかにも理知的な光を湛える黒々とした両の目を持った、美しいとも言える整った顔立ちであった。
7 団結
厚く垂れこめた雲が月を覆い隠した、真の闇夜であった。
一切の灯りを持たず、馬には乗らずに手綱を引いて進む徒歩行軍が続いている。
誰も口を開かず、黙々と歩みを進める。そればかりでなく、あらゆる音を立てぬように、細心の注意を払ってあった。武具は布で包み、普段はがちゃがちゃとうるさい甲冑の可動部も、真綿で包まれていた。馬には厳重に銜を噛ませてあり、呼吸のたびに白い息が吐き出されても、音は出なかった。
途中から街道を外れ、藪の中のけもの道を進み始めていたが、それは徹底して継続されていた。闇夜の中を無音で進む様は、さながら亡者の葬列を人々に思い起こさせるだろう。
治直率いる百名の歩兵隊は、ようやく青葉山を大きく回り込み、因幡山からはちょうど陰になる位置に辿り着いて、ここで二刻ほどを過ごすことになっていた。
隊を三つに分け、休息と斥候を交代で務めることとなるが、当然火の類は使えないから、霜月に掛かろうとする冷気の中で白湯で暖を取るというわけにもいかない。
今は行軍が終わったばかりでうっすらと汗ばんでいるものの、汗が引いたら最後、寒さに凍えることになるのは、それこそ火を見るより明らかだ。
「伊佐、彦、あれを、な。」
治直が小声で付き従っていた小者二人に声を掛ける。無言で頷いた二人は、荷駄馬に括りつけた鎧櫃の中から、稲わらに包まれた銅製の大きな薬缶を取り出した。この中には、ほとんど煮立たせるまで火にかけていた酒が入っている。そのおかげでいくらか香気は飛んでしまっただろうが、少し熱めの燗が付いたような状態でここまで運ぶことができた。
最初の休息に当たる三九郎の部隊に、湯呑に一杯ずつだけではあったが、この燗酒が振舞われた。
「や! これは何より! 身体が温まりまする」
綿入りの羽織を頭から被るようにしていた三九郎は、この粋な振る舞いに大いに喜び、同じように湯呑を手渡された部隊の兵にも、その感動が伝わって至る所でヒソヒソと話し合う声が聞こえてきた。
「さすがは杉谷様。こうしたことに抜かりはないわい。」
「それよ。まさかにここで熱い酒を飲めるとは、夢にも思わなんだわい。」
「うぅ・・・温いのう。これがほんとの、染み渡るというやつ。」
このわずかな一杯が、休息を取るものに暖と安らぎを与え、同時に治直に対する信頼と忠誠に変わっていく。
「すまぬが、斥候に出る者は後じゃぞ。酔うてもろうては困るからの。戻ったら、同じように振舞おうわい。」
小さな円陣の外側で、これから斥候に当たる部隊にも酒の件は伝えられた。
これで士気は大いに上がり、闇の中に白い歯が浮かび上がる。至極些細なことではあったが、これだけでも人の気持ちは変わるものなのだ。
最初の斥候に出る重兵衛の部隊は、さらに隊を三つに分け、ほぼ十名ずつの分隊を作り、休息場所を中心に同心円状に広がって警戒に当たる。ここまでの行軍で闇に慣れた目と研ぎ澄まされた耳が、些細な異変も見逃さないことだろう。
ちょうどその頃、ゆるゆると八甲館を出立した中山率いる偽の進物を積んだ荷駄隊が、街道沿いに治直の部隊を追い越す形となって、治直がいる位置とは反対側の青葉山山麓にある池の端に到着した。今夜をここで越し、明払暁とともに因幡山城に入城する手筈になっている。
お互いに青葉山の陰になり、姿を確認することはできなかったが、その報はあらかじめ散らしておいた農民に化けた伝令によって治直の元にもたらされていた。治直の方でも、予定通りの場所で待機に入った旨、この場所に到着すると同時に中山、宗清それぞれに伝令を走らせていた。
八甲館の玄関口に床几を置き、いつでも進発できる体制のままでその報告を聞いた宗清は、大きくうなずいて立ち上がると、手にした鉄扇を一振りした。
たちまちに馬が牽かれ、前庭で整列待機していた部隊が冠木門を出、行軍のための陣形を整え始める。
「いよいよじゃ。長山、留守を頼むぞ。」
「ははっ! 御館様には、ご武運を!」
「うむ。行って参る。」
傍らに待機していた長山に声を掛けると、宗清は馬を牽いてきた小姓の肩に足を掛け、颯爽と馬上の人となる。
その凛々しく引き締まった表情を見た長山は、思わず涙ぐみそうになるのを必死に堪えた。幼い頃から自分の子供よりも手塩に掛けて育て上げた殿様が、いよいよ出陣なさるのだ。感慨もひとしおではあったが、出陣に際して涙を見せる訳には行かぬ。
拍子木が一つなり、街道の部隊が動き始めた。それを見た宗清も、ゆっくりと馬を進める。その動きを見ながら、前庭に残っていた部隊も動き出し、宗清を中心とした行軍陣形が完成する。
長山は膝頭に手を付いた姿勢で深々と頭を下げ、宗清と部隊を送り出した。これで八甲館に残るのは、裏庭に待機している稲原の後詰部隊と、八甲館で立ち働く小者や女衆、そして盛りを過ぎた老兵だけとなる。
稲原の後詰部隊は、戦闘集団というよりは現在の工兵に近い部隊となる。戦闘によって壊れた城門や城の各設備を、いち早く補修し、すぐに使える状態に持っていくのが主な仕事となる。
一応、武装はしているが、工人や職人が主で、丸太や板材などを積んだ荷駄隊も行動を共にする。治直や宗清が率いている部隊とは、戦闘力と言う部分で雲泥の差があった。
その稲原の部隊も、夜が明ける頃には八甲館を進発する。
そうなれば、八甲館は丸裸になったも同然だ。決して大袈裟でもなんでもなく、少しは統制の取れた野盗が三十人も攻めてきたら、かなりの苦戦を強いられることになるだろう。
一部心得のある女衆までが、自発的に襷掛けに薙刀持参で館内の巡回に当たってくれており、長山としては嬉しい限りだが、逆に言えば女衆でさえ今の館の状態に危機感を覚えるほどに、酷い状態だということだ。
既に長山の指示で、防火態勢と館内外の見回り巡視を行い、長山自身も老兵たちと共に大広間に半弓持参で待機することに決めている。これからしばらくは、不寝番をするつもりでいた。
このように、館に残された者たちもまた、置かれた立場で意味合いは違えども、共に戦っていたのである。
8 密命
「御頼み申ーす! 御頼み申ーす!」
刻は少し巻き戻り、治直が八甲館で最終的な進発の準備をしている刻限、夕闇迫る頃合いの因幡山城内に、搦め手の一角にある武家の門を叩く人影の声が響き渡る。
「どうれー」
野太い声と共に、通用門が開かれて警杖を持った小者と見られる男が姿を現した。
「私、杉谷治直より此の方様、羽賀虎三郎様への書状を預かり置きし者にござりまする。羽賀様への御取次ぎをお願い致したく・・・。」
「おお、なんじゃ、小助ではないか。」
使者が口上を言い終わる前に、同じく通用門から顔を出した別の男が、気安げに声を掛けてよこす。
「これはこれは、菅井様。いつも主人がお世話になっておりまする。」
「なに、それはこちらのことよ。して、書状とな? せんだっての返書かいな?」
「・・・さて・・・。中身までは、分かりませぬが・・・。」
「そうかそうか、よしよし。どれ、まずは入られよ。儂が取り次ごう。」
小助と呼ばれた使者は、腰を屈めるようにして通用門を潜りながら、最初に対応に出た門番らしき男に頭を下げた。菅井と呼ばれた男は、羽賀家家中にてよく伝書使を務めていて、治直とも小助とも面識のある男であった。
治直を尊敬してやまぬ羽賀は、使いにも気を遣い小者ではなく歴とした家中の者をよこすのが通例だった。中でもこの菅井は人柄もよく練れており、相手が小者であろうと相応の対応をしてくれる。これはまさに、菅井の主人羽賀虎三郎の人格そのものであり、小助は何度もこの主従と酒席を共にしている。
菅井は成り行きを見守る門番に頷きを示すと、門番も頭を下げて引き下がり、小助が通り抜けた通用門を閉じる。
「まだ閉門には時間のある刻限と思うておりましたが・・・。失礼にはならぬでしょうか?」
この時間、いつもならまだ表門は閉じられていないはずなのだが、今日は閉じていたことを不審に思った小助が、後に続きながら菅井に問うた。
「いや、なに。どうも近頃、お城で面白くないことが多いらしい。今日もお城から戻るとすぐに門を閉じよと仰せられた。特段のことがあるわけでもないから、懸念には及ばんよ。それよりも、杉谷様からの使者と知ったら大喜びなさるだろう。」
「左様でございましたか・・・。それならばよろしいのですが・・・。」
二間続きの玄関から屋敷に通され、玄関脇の三畳敷で呼ばれるのを待つ。
その間にも、下女から茶菓でもてなしを受ける。このあたりも、この家の主人の躾が下々まで行き届いていることを示している。
ほんの四半刻ほどでまた菅井が姿を現し、共に羽賀のいる書院へと通された。
「おお! 小助! 久方ぶりじゃな。まずは一献、喉を潤してくれい。」
座敷に入る前に、濡れ縁に両手を着いたところで虎三郎から声が掛かった。虎三郎、早くも軽く酔っている。
「よいよい、我らの間で堅苦しい挨拶など抜きじゃ! ささっ、入られよ!菅井、お前も相伴してくれい。」
小助はそれでも、何とか頭を擦り付けるようにしてから座敷へと足を運んだ。すぐに虎三郎自らの酌で酒盃が満たされる。菅井から酒盃を受け取った小助は、一度酒盃を掲げるようにしてから、一息に酒盃を空ける。
今度は小助がにじり寄り、恭しいほどの手付きで虎三郎の盃を満たした。これまた一息に盃を空け、にやりとする。
「小助の顔を見て、酒が美味くなったわ。今宵は久しぶりに心の底から酔えそうだわい。」
「これは、お戯れを・・・。綺麗な女御ならともかく、私の顔など見ても酒が不味くなるばかりでありましょう。」
「そうでない! そうではないのだ、小助よ。俺ァこのところ、不貞腐れていてなぁ。今日も早々にお城から退散してきたのよ。余計な使番など来ぬように、門まで閉じてなぁ・・・。」
小助は、腹の中で「しめた」と思った。もちろん、その思いはおくびにも出さず、酔いに任せて語り始めた虎三郎の話に耳を傾ける。
小助が懐中に忍ばせている書状は、これと言って何の変哲もない礼状だが、着物の襟に縫い込めてある密書は、何を隠そう羽賀虎三郎に造反を促すためのものだ。
虎三郎の話は、まさに小助が望んでいた通りの話であった。つまりは、斎藤家、そして新たな主君となった斎藤義辰への不審と不満であった。そこには真情がこもっており、こちらの出方を窺うような素振りはない。
小助はこの役に付いたところで命の覚悟は出来てはいたが、それでもこの反応にはホッとせざるを得ない。
もちろん、こちらの思惑通りに事が運ぶ目が大きいと踏んだからこその造反策ではあったが、それでも虎三郎の出方には不明なところが多かった。それゆえに、渡す時機が問題となっていた。あまりに早く渡し過ぎ、万が一、虎三郎が役目大事と城を守る側に付いたなら、勝機は完全に失われてしまう。
滔々と語って聞かせる虎三郎の話は、家への不満から治直への賛辞、そしてその治直が心を込めて仕える八柄宗清を褒め称える内容へと移っていく。はっきりと、「儂も八柄の殿のような方にお仕えしたい」とまで言い切った。
本来であれば、断じて他家の人間に聞かせるべき話ではないし、また同席した菅井はそれを制すべき立場ではあったが、菅井も声を潜めながら自分が聞き及んだ話をし出す始末であり、二人は次々と運ばれる酒を胃に流し込みながら、反対に腹の中の鬱憤を吐き出しているかのようだった。
話を聞くにつれ、小助には斎藤義辰と言う人間が、朧気ながら見えてきたような気がした。かいつまんで言えば、世の中を知らぬ餓鬼なのだ。なんでも自分の思う通りに事が運ぶと信じて疑わず、それに異を唱えられれば癇癪を起す。
そうした義辰の愚かさに付け込み、道山誅滅を企て、義辰を傀儡にした者たちの存在も、うっすら見えてきた。今は、そうした義辰派と、目の前の虎三郎たちのような旧主派が暗闘を繰り返しているような状態なのだろう。
戦場での悲惨ではあるがある意味すっきりとした戦いとは違い、城中の陰惨極まる「戦」などは、虎三郎のような武人がもっとも忌み嫌うところである。それが、虎三郎主従の鬱憤となり、「不貞腐れる」ことに繋がったのだろう。
同じような話が幾度となく繰り返され、夜もすっかりと更けた頃、庭先で梟が二度、ホゥホゥと鳴いた。それを合図に、小助は厠へ立つために中座を申し入れた。
厠に立って用を足していると、酒で火照った身体が冷気が抱きすくめられ、小助はぶるっと一つ、身震いをした。その時、厠の壁に小石が投げつけられる音がして、小助は声を出すようにして欠伸をする。目の前の桟から、白い息が煙のように吐き出されると、その息が大きな丸を描いた。
これこそが、あの打ち捨てられた樵小屋の地下で、籠としから耳打ちされた合図であった。梟の声は、行軍が滞りなく進んでいることを小助に伝え、小助は話の風向きが、こちらに有利と合図を返した。
数舜の後、今度は一つ、また梟が鳴いた。それは、予定通りに事を進めよ、という合図だった。
「明払暁、密書を示し全てを明らかにせよ」
陽に焼け尽くし、口元に白いものの混じった髭を蓄えた梟が、音も無く庭先から飛び立って行った。
「杉治は及ばざる籠とし」⑤
了。
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