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小説「ぐくり」①
①あらすじ
時は昭和初期、新聞記者の川口浩一は事実上の「クビ宣告」を受け、気を晴らすために馴染みの店へと足を向けた。そこで一発逆転のネタを聞き込んだ川口は、事件を追う決意を固めるが・・・。
タバコの煙がこもる狭い記者部屋で、川口浩一は副編集長の机の前で、もうかれこれ小一時間、怒鳴られ続けていた。西日を正面からまともに受ける形となっていて、シャツの中で汗が流れていた。もちろん、それは暑さから来るものだけではなかった。
3年前、某政治家の汚職事件をすっぱ抜き、一躍時の人となって、この「興洋新聞社」に引き抜かれはしたものの、それからは鳴かず飛ばずのただ飯食いと言うやつで、記者としての実績はほとんどなかった。
そればかりか、これまで川口が持ち込んだネタが二度もガセネタで、スクープを他社に持っていかれたのだ。うち一社は、川口が元いた新聞社だった。
記者班長から格下げされ、与えられた現場取材を行うようになったが、以前の栄光を引きずった川口の、杜撰とも言えるやる気のない記事は、上司はもちろん、同僚や後輩までもが見向きもせず、屑入れから川口の記事を拾った掃除のおばさんですら、その出来のひどさに憤慨して、川口に詰め寄るようなことまであった。
「きさんっ! 30ば超えて、恥ずかしくはないのかっ! えっ! お前、インケツかっ!」
副編集長の山下は九州の出で、頭に血が上るとお国言葉が混ざってくる。つまり、今は相当頭に血が上っているということだ。
「今月中に、何か掴んで来い! それが出来ないなら、来月お前の席はないぞっ!」
それが、締めくくりのセリフだった。ようやく解放された時、同僚や後輩の川口を見る目は嘲笑ですらなく、氷のように冷えた視線が一瞬向けられるばかりで、川口の心を一層傷つけた。もはや、「無い者」と扱われている気がしたのだ。
『せめて、バカにしてくれよ、嘲笑ってくれよ・・・』
これが、川口の正直な気持ちだった。
来月で33歳になる川口は、自分の席からしわくちゃで、薄汚れた背広の上着を掴み取ると、重い足取りで記者部屋を出た。今日は6月22日。「今月中」は、一週間、ということだった。そんな短期間で有力なネタが掴めるくらいなら、今こんな状態にあるわけがない。つまりは、実質的な解雇予告ということだ。
「それも、いいさ・・・。」
川口は、日中のジメジメした暑さが、涼風でようやく過ごしやすくなった街中へと足を向けた。こんな時は、へべれけに酔っぱらうしかない。
川口の行きつけは、銀座のカフェー・ニューユニオンで、大阪から乗り込んできた経営者が5年ほど前に開いた店だった。今では銀座でも珍しくなくなってきたが、派手な衣装と化粧で着飾った女給が付きっ切りで接待をしてくれる店で、羽振りが良かった時には毎日のように通っていたが、ここ最近はご無沙汰になっていた。
興洋新聞社に移ってすぐ、川口は社主の紹介で、三越で働く絹子と付き合うようになった。遠縁の娘だと紹介された絹子は、川口より4歳若かったが、気立ての良いしっかり者で、その数年前に婚約者を事故で亡くしていた。
紹介されたその日に意気投合し、二人はすぐに生活を共にするようになったのだが、ここ最近の川口の怠慢ぶりは生活にも影響を及ぼし、とうとう業を煮やした絹子は、置手紙を残して出ていってしまっていた。
そんなわけで、さすがに家に女性がいる時に飲み屋通いという訳にも行かず、ニューユニオンから自然と足が遠のいていたのだ。だが、それももう終わった。
電飾看板の煌めく路地に入ると、すぐにひと際大きな看板を掲げているのがニューユニオンだ。元から銀座にいた連中は、この派手さが気に食わず、開店当初は大変な騒ぎになったこともあったが、新しい物に飢えた客はこぞってニューユニオンに足を運び、結果、その騒ぎを起こした連中は銀座を離れることとなってしまっていた。
両開きの大きなドアを開けると、絨毯の敷かれた暗い廊下となる。左側にカウンターが置かれ、受付の代わりに黒服の男性が立っていた。店が大繁盛していた頃には、この廊下の両側に長椅子が置かれ、入場を待つ男たちの待合室となっていたが、さすがに平日のこの時間には待っている客もいない。
「いらっしゃいませ。」
長身の男は、ぴったりと髪を撫でつけおり、その頭が頭上のランプの明かりを受けて白く光っていた。ほぼ一年振りに来店した川口とは、面識のない男だった。
「やあ。一人なんだがね・・・。以前ここにいた大崎クンは、もう辞めちゃったのかい?」
自分が一見の客でないことを、それとなく相手に知らせた。男は、眉を上げマジマジと川口の顔を覗き込んだ。
「・・・ええ、大崎は今、新地の店に転属となりまして・・・。私、後任の伊藤と申します。どうぞ、御贔屓に。」
川口のねらいは図に当たった。伊藤と名乗った男の物腰が変わったのが、その証拠だ。
「僕は、川口と言うんだ。仕事でしばらく東京を離れていてね。久しぶりに懐かしく思って立ち寄ってみたんだが・・・。葉子ちゃんやカナエちゃんは、元気でやっていたかな?」
「左様でございましたか・・・あいにく、葉子は既に退店しておりまして、カナエはまだおりますが、今日は休みとなっております・・・。今のお時間ですと、弘美や明子がおりますが・・・?」
「弘美ちゃんは・・・知らないなあ。明子ちゃんは・・・小柄でふっくらした、東北の生まれの子かな?」
「ええ、ええ、その明子です。」
伊藤は笑顔を見せながら、カウンターを出て川口を入口へと誘導した。くすんだ金色の大きなドアを押して、店内に声を掛ける。
「お客様一名、ごあんなぁーい!」
この掛け声は変わっていない。店内は入り口から一段低くなっており、ボックス席が20席ほどの他、奥には大型の個室が一つと、小型の個室が3つある。酔っ払いが歩けるぎりぎりまで明るさが抑えらていて、席の後ろには目隠し代わりの観葉植物が置かれているのも変わっていない。
「いらっしゃいませー。」
ほどなくして、陽気な掛け声とともに二人の女性が川口の前に現れた。どちらも見覚えのない顔だったが、どこかまだ初々しさの残る女性たちだった。おそらく、まだ20歳そこそこだろう。
二人が川口の腕を取り、席へと案内する。道すがらにそれぞれが自己紹介をしてきた。右側の髪の毛をひっ詰めて団子にしている子が静江、左側の肩くらいの長さの髪の子が悦子と名乗った。懐かしい香水の香りが、川口の鼻孔をくすぐった。
「あとで、明子にご挨拶をさせますので・・・。どうぞ、ごゆっくり・・・。」
後から着いて来ていた伊藤が、席に着いた川口に耳打ちして去って行った。
しばらくは3人で、ジントニックを飲みながらなんということはない世間話をして過ごしていたが、30分もした頃、明子がママに連れられてやってきた。
「あら、コウさん、ずいぶんとご無沙汰ね、もうお見限りかと思ったわよ。」
ママは志津子と言った。あまりにあからさまなので、伊藤には名前を出さなかったのだが、川口はこのママに、当時はかなり世話になっていたのだ。そういえば、大スクープのきっかけも、ママから聞いた話だった。
「あはは、伊藤クンから聞いたのかい?」
「そうよ。明子ちゃんの名前を出したらしいじゃない。私の名前、忘れたの?」
「そうじゃあないよ。さすがにママの名前を出したら、なんかいやらしいじゃないか。いかにも偉そうな感じがしちゃってね。」
「本当かしら? それで、東京を離れていたんですって?」
「ああ・・・まあ、そんなとこだよ・・・。」
「嘘おっしゃい。いいひとができたんでしょ? 三越で見かけたわよ。かわいらしい方じゃない。」
「あ、そうか、見られちゃってたか! うん・・・まあ、そんなわけで、ここの敷居が高くなっちゃってね。」
「やっぱり。・・・まあ、いいわ。今日は久しぶりだから、私もご相伴させてもらって構わないかしら?」
「もちろんさ、いやあ、ママに接客してもらえるなんて、なんだか申し訳ないなぁ。」
静江と悦子が席を離れ、志津子と明子が相手になった。顔見知りと飲み始めると、やはり口を着いて出るのは自分の境遇の愚痴だった。酒がジンからウィスキィに変わったのも、一つの原因になっていたかも知れない。それと察した志津子は、目配せで明子を下がらせ、志津子と二人の酒になった。
「そういうわけで、僕はすっかり情熱を失ってしまってねぇ・・・。せっかくライカを手に入れたと言うのに、ほとんど活躍の場もなく、手放すことになりそうだよ・・・。それに、ほら、三越で見かけたっていう・・・絹子と言うんだけどね、それにも愛想を尽かされて、その無聊を慰めるために、ここに来たようなもんさ・・・。」
こんな時、志津子は黙って耳を傾けるだけだ。おためごかしの相槌や、説教臭い話などは一切しない。さすがに長くこの商売をやっているだけに、その辺りの呼吸はしっかりと弁えている。男の腹の中に溜まったものを、吐き出すだけ吐き出させ、代わりに酒を飲ませるのだ。
「まあ、そんなわけだから、しばらくはここにも来られなくなりそうだよ。実は、田舎に帰ろうかとも考えていてね・・・。」
志津子はゆったりとした所作で、川口の空いたグラスに新しいウィスキィを指二本分、注いだ。
「あ、おいおい! 舶来のウィスキィをそんなに注いだら、僕のサラリーが吹っ飛んでしまうよ!」
「・・・いいわよ。今日は、私がおごってあげる。・・・それでね・・・もしコウさんにその気があれば、だけど・・・。」
そう言うと、志津子は席を立ち、川口の隣に腰を下ろした。
「・・・実はね、最近お見えになるお客様なんだけど、やたらと代議士先生方の愚痴をこぼすのよ。金遣いがどうのとか、女を何人も囲ってるとか・・・。でね、そのお客様、誰だと思う?」
「・・・いや・・・わからないなぁ。どこかの重役かい?」
「・・・日本鉄道の路線開発部長なのよ。それでね、どうやら仙台から青森の路線で、大きな工事があるんですって。でもほら、あの辺りは凶作で大変な状態でしょ? 鉄道の路線なんか引いたって、アガリがあるわけないじゃない。 それで、さすがに私もおかしいな、と思って聞いたのよ。そうしたら、赤字の部分は国が負担するんですって。どう考えても、変だと思わない?」
「うん・・・さすがにそれはおかしいね。それに、あそこらは鉄道よりも、まずは食い物だろう?」
「そうでしょ? それで近々、代議士先生を何人か連れて、現地を視察に行くそうなのよ。ますますおかしいじゃない。これは、さすがに何か裏があるんじゃないか、って、女の子たちとも話していたところなの。」
「・・・つまり・・・視察にかこつけて、密談が行われるんじゃないか、と?」
「そうそう! それよ。たぶん、赤字の負担のことで、代議士先生にうまい話を持ちかけるつもりなんじゃないかしら?」
志津子は川口の腕を掴み、瞳をキラキラ輝かせながら川口の答えを待った。
「・・・確かに、わざわざこの時期に、代議士先生を視察に連れて行くって言うのは変だよなぁ・・・。よし! ここはひとつ、その話に賭けてみるか!」
志津子は、待ってましたとばかりに、川口の腕を叩いた。
「さすがは、コウさん! きっと、コウさんならそう言うと思ったの!」
「はは・・・なんか、うまいこと乗せられた気分だけど・・・。」
「でも、もしすっぱ抜けたら、コウさんも田舎に帰らないで済むでしょ・・・?」
「・・・そうだなぁ・・・。それに、もしダメでも、それはその時のことだしな。東北の窮状を伝えるだけでも、何かの役には立つかも知れないし・・・。」
「そうよ! このままクサクサして消えていくなんて、コウさんらしくないわよ!」
「うん・・・それも、そうだな! で、その客って言うのは、今日も来るのかい?」
志津子は、何かを思い出すように宙を見つめると、やがてこう言った。
「たぶん、今日は来ないわ。木曜日には来たことがないもの。でも、明日はきっと来るわよ。金曜日には、ここ数ヶ月毎週来ているもの。・・・そうねぇ、明日、8時頃にまたいらっしゃいな。うまいこと引き合わせてあげるから。」
それで、話は決まった。川口は明日の来店を約束して、会社に戻るつもりになった。日本鉄道と、名前の出た代議士の素性を調べる気になったのである。川口の記者魂に、久しぶりに火が着いたようだった。
会計伝票には、ちょうど3円と書かれていた。どう考えても安過ぎると考えた川口は、伊藤に5円を手渡して、店を後にした。
「ぐくり」①
了。
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