小説「杉治は及ばざる籠とし」⑬
第三章
1 安寧
八柄家が因幡山城を手中に収めて、一年の月日が流れた。
この間、心配されていた領内各支城や近隣諸国、そして飛騨境に居住する国衆からの反発もなく、とにかく領内の安寧と慰撫に努めた一年だった。
もちろん、それには外交面では中山や治直、内政面では稲原や長山を中心とした宗清自慢の家臣団が、その腕を十二分に発揮したことが大きい。さらには旧斎藤家の家臣も完全に八柄家の人間となりきり、それぞれの部署で懸命に立ち働いたからだった。
特に、因幡山開城から各支城や居館に奔った者たちの活躍はめざましかった。道山が誅された後に城代の交代が命じられた川手城と三春、大駒の居館については、義辰派の人間が充てられていたことからある程度の混乱は必至と考えられていたが、これらを全て無血のままに開城させ、八柄家への報復を断念させることを得た。
もし、どこか一つでも反攻の姿勢を示されていたら、この一年はおのずと違う、血生臭いものになっていただろう。
それに対する宗清の対応も見事だった。
働きの大きい者には、速やかな加増で報いた。最初の論功行賞こそ因幡山城開城から三月の後となったが、これには各支城や近隣諸国の反応を見なければならないと言う現実的な問題があった。何より、その時点で宗清はあくまで斎藤義起に代わって義辰を討っただけのことであり、因幡山城の後継者は義起であるという態度を変えなかったからだ。
それが治直のもたらした報告で一変し、八柄宗清が斎藤道山の旧領を引き継いで正式に美濃国の後継者として起った。尾田家もそれを承認し、甲斐の竹田家、飛騨の三鬼家も承認とまでは行かずとも明らかな異を唱えることもなかったのである。
こうして初めて、宗清が論功行賞を行った。
各城代から送られてきたそれぞれの石高に八柄家の旧領を合わせた現在の総石高は四十万石に及び、実に旧領の十倍を超える石高であったが、それらを長山以下の経理班が再分配していく。
長山は腰痛に苛まれながらも驚くべき速さで再分配を終え、草稿を宗清に提出している。宗清はそれを元に協議を重ね、三月後の発表となったわけである。
旧斎藤家の家臣には、ほとんど無条件で三十石以上の加増がなされた。
八柄家の家臣にもそれぞれに加増の沙汰はあったものの、それよりも大きかったのは足軽や付き人からの士分への昇格者が多かったことだ。
領国も人材も大きく膨れ上がったのだから、それに伴って役付きの家臣も増える。そうなれば、当然新たに家臣を雇わなくてはならないのは必定と言えた。
あの因幡山城で最初に八柄家の旗を打ち振った中山配下の足軽を始め、多くの無名の者たちが新たに姓を与えられ、八柄家の家臣となった。
この論功行賞で治直は八甲館の城代となり、八千田を含む一郡の経営を任せられることになった。伊佐次と彦次郎は正式に八柄家の家臣となって、それぞれ「杉本伊佐次郎」「八千田彦之丞」を名乗る。いずれも自分たちで考えた姓名だ。
彦次郎改め彦之丞は、治直の手を離れ、八柄家の厩番頭として立ち働くことになった。年齢的に見ても、その能力からしても、戦場で走り回るより余程彦次郎に向いていると思われる仕事だった。
伊佐次改め伊佐次郎は、引き続き治直に仕え、著しく業務も配下も増えた治直の、秘書官的な役割を担っている。
こうして、最初の一年が瞬く間に過ぎた。
その年の瀬、久しぶりに八千田の屋敷に全員が集まり、酒を酌み交わしていた。
「・・・いんやぁ、それにしても、みんな大した出世をしたもんだねぇ。」
「そうよ。俺ァ未だにやることは変わらねぇが、彦さんは違う。なんてったってお城の厩番頭だぜ? 今じゃあ五十人からの棟梁だ。最初は彦之丞なんて名前は大袈裟過ぎやしねぇかと思ったが、とんでもねぇ。名前に負けねぇ働きぶりだ。」
「そう言えば、名乗った時はだいぶ馬鹿にしてくれよったなぁ!」
「だってそうだろう! 馬喰上がりが『彦之丞』だぜ? 俺ァそんな畏れ多い名前は名乗れねぇ。堂々と名乗った彦さんはすげぇやな。」
「抜かせ。俺は一代限りの御奉公と決めているからな、せめて好きな名前を名乗らせてもらったのよ。」
「・・・中山様が彦の働きぶりを褒めておられたぞ。馬どもが見違えるように元気になって、毛艶も見事だとな。」
「へ・・・そうですかい・・・。そりゃ、ありがてぇ。」
こうして囲炉裏を囲み、嘉助手製の干し魚を炙って嚙みちぎりながら酒を飲んでいると、全員が昔に戻った口調で話が弾んだ。
治直と伊佐次郎は八甲館にて起居するようになり、彦之丞は因幡山城に常駐しているから、嘉助はこの杉谷の屋敷に一人で住み暮らすことになった。それぞれが時折嘉助を見舞ってはいたが、四人が一堂に会するのは、あの出陣の朝以来のことだ。
「・・・籠としは、元気にしておるのかのぅ・・・。」
「なんだ、とっつぁん。あんなに煙たがってたくせに、いなくなったらやっぱり心配かね?」
「うんにゃあ、心配、って程でもねぇが、やっぱりこうしてみんなでいると思い出すのよぉ・・・。」
「なぁに、籠としのことだ。どこかでうまくやってるだろうよ。いなくなったのはとっつぁんのせいじゃねぇから、そう気に病むない。」
伊佐次郎が嘉助を慰めながら、湯呑に酒を満たす。
この屋敷に嘉助だけとなってから間もなく、籠としが屋敷から消えた。以前からふっとどこかに出掛けて、三日も戻らないことがあった籠としだったが、さすがに一年も戻っていないことを嘉助は気にしており、あの濡れ縁に、握り飯と汁を毎日置いているのだと言う。
しばらく食べている様子がない、と八千田の衆から聞いた時は取り合わなかった嘉助も、十日も戻っていないと気付いた時は集落中を訪ね回った。惣名主にも相談し、人を出してもらって近隣の山や沢まで見回ってもらったが、籠としは見つからなかった。
嘉助はそれを、自分が籠としを無視し続けたからだと思い込んでいる。
だからこそ、今までは嫌がっていた日課を引き継いで、陰膳をしているのだった。
治直はそんな嘉助の様子を見ながら、真実を告げられぬことを心の中で謝っていた。達者ではいるが、一年前より縮んでしまったような嘉助の皺だらけの顔を見ると、そうした思いがますます大きくなってくる。
「嘉助、籠としはもう戻っては来るまい。そろそろ八甲館に住み暮らしてはどうかね?」
「いんやぁ。おらぁここでいい。」
「だと言って、とっつぁん。いつまでもここで一人と言うわけにもいかねぇだろうが。春先にでも、どうだい? 館が嫌なら、俺の屋敷でもいいんだぜ? 来てくれると、俺も助かるんだがなぁ。」
「なんとも、もったいねぇ話だがよ。おらぁここで死にてぇ。御館様よぉ、それではいけないかね?」
「・・・む。嘉助がどうしても、と言うなら無理強いはせぬが・・・。」
「はぁい。そうして下さいまし。おらぁここでご主人様の墓守をしながら静かに暮らしていきてぇ。」
そう言うと、嘉助はさめざめと泣き始めた。齢のせいか酒のせいか、嘉助は最近感情の動きが激しい。ご主人様と言うのは、治直の養父・甚左衛門のことであろう。この屋敷の裏手の竹林に、その墓が置かれていた。
「よしよし、ならばそう致せ。安吉の女房に嘉助のことを頼み置くからな、困ったことがあれば、安吉を頼るのだぞ? 良いか?」
着物の袖口で鼻を擦りながら、嘉助が二、三度、大きく頷いた。
2 婚礼
八柄宗清が因幡山城に入ってから二年目の春、宗清に婚礼話が持ち上がった。因幡山城に入るとすぐ、稲原と長山がほとんど強硬にことを進め、道山の縁戚に当たる旧家臣で、もはや隠棲してはいたが相談役としてこの二年の治世に力を借りていた人物の孫娘をもらい受けることになったのだ。
遠縁とは言え、斎藤家に縁がある旧臣の孫娘となれば、出自としては申し分がない。隠棲してからしばらく経つので、娘に武家の嫁としての心得はないだろうが、それは嫁いでもらってから考えれば良い事である、と言うのが稲原の弁である。なによりも宗清はこの春で二十歳となる。当時としては、晩婚の部類だった。
一国一城の主として、まず何よりも考えなくてはならないのが跡継ぎのことだ。斎藤道山の娘との縁談が不幸な事故によって破談となってから久しい上に、道山存命の頃には遠慮の気持ちがないわけでもなかったが、こうなった以上、嫁取りと跡継ぎは避けては通れない急務である。
幸いにして時勢も落ち着きを見せている今この時を逃してはならぬと、二人の老臣が焦るのも無理はなかった。
実は、二人は以前からこのことについて何度も宗清に進言していたのだが、いつも何かと理由を付けては断られ続けていた。それならば、とまずは侍女に見目麗しい者を選抜してみたり、宗清の好むような音曲に明るい女子を京から招き、紹介してみたりもした。
だが、いずれも「お手がついた」ということはなく、それでいて突きあがってくるような若い衝動に翻弄されている様子も見えない。
「御館様には、女子にご興味がないのではないか?」
夜中に老臣二人がひっそりと酒を酌み交わしながら、こんな疑念を持つほどに、宗清は清廉さを保っていた。
「こうなっては、御寝所に女子を忍ばせてみてはどうか?」
「いやいや、それでもお手が付かなければどうする? 忍んだ女子はそれこそ嫁に行けなくなるほどに傷つくに違いない。・・・それに、御館様はそうした企み事など簡単にお見抜きになる。なおのこと、お手は付けまいよ。」
「では、どうすれば・・・?」
「・・・うむぅ・・・。」
八柄家の頭脳とも言える二人が熟考しても、これと言った策が思いつかないという事態に陥り、二人はますます頭を抱えることになった。
「こうなっては、致し方もなし。我らが首を掛けてでも、御館様を説き伏せねばならん。」
こうして本格的な宗清の嫁探しが秘密裏に行われ、そこで白羽の矢が突き立ったのが斎藤道山の大叔父に当たる人物の孫娘である、「佐江」であった。
そして節分の日、二人は小袖の下に白装束を着込んで、宗清に対面を申し出た。
平伏する二人の前に現れた宗清は、襟元からちらりと見える二人の白装束に苦笑を浮かべつつ、上座へと座ると二人に声を掛けた。
「もはや、何も言うまい。二人が決めた女子を我が嫁として迎えよう。それならば、今少しこの世で力を貸してもらえるかね?」
飛び上がらんばかりに跳ね起きた二人は、宗清のはにかんだような笑顔を見て、再び平伏した。
そして今日、この梅の花が咲きこぼれる春の吉日に、輿入れとなった。
佐江姫の迎えには、美々しく着飾った中山と治直が赴いた。
綿帽子を深々と被った佐江姫が横向きに乗る馬は、当然のように八柄家の厩の長である彦之丞が口を取る。
その噂はすぐに因幡山の城下に知れ渡り、城門前を中心に、沿道には人だかりができていた。その城門前には、宗清自らが長山を連れて迎えに出ている。
「ご覧ください。民もこのように、喜びくれておりますぞ。」
「何もここまで大袈裟にせずとも良いのではないか? どうもさっきから、居心地が良くない。」
「それほど照れずともよろしいでしょう。美濃の若殿として、堂々としておられれば良いのです。皆、自分のことのように喜んでくれているのですからな。」
「む・・・。それはありがたいことではあるが・・・。」
「おっ! 来られましたぞ!」
中山の調子はずれの馬子歌が鈴の音に混ざって聞こえてきた。
この報を何より喜んだ中山は、稲原からこの嫁取りの事実を明かされると、それこそ男泣きに泣いて稲原を困惑させていた。
「ご家老が業務繁多な折に陰でそのように動きくれていようとは、思いもよりませなんだ。武辺に明け暮れ、お家のことを顧みずに過ごした自分が情けない。・・・忝のうござる。」
これが当時の中山の言だった。今では八柄家で最古参の人物となりながら目先の業務に明け暮れ、頭と頂く人物の将来に何一つ気を配らなかった自分を深く恥じていた。
それ故に、せめて晴れの日は自分が迎えに出ると言い出して聞かない。
八柄家の重臣中の重臣が、昔はさておき今では無役の老人のところに嫁を迎えに行くと言うのは体面上どんなものかと、稲原や長山が諫めてみても頑として聞かない。
困り果てて宗清にその旨を告げてみたが「中山の気の済むようにさせてやれ」の一言で片付いてしまった。
そうなっては、稲原や長山も引き下がるを得ない。だが、勢い余った中山が先方を困らせることがないか心配なのも実際である。そこで稲原が治直を同行させることにした。家中でも中山を抑えられるのは治直しかいない。
因幡山城獲りの一件以来、稲原は治直を頼みにすることが多くなった。治直に対する口の利き方までが変わってきている。その様子を見ている者たちは、口を揃えて「いずれ杉治は家老職に就くのではないか」というような噂話をしているようだった。
沿道の歓声が大きくなる。馬上の中山が扇子を打ち振って、集まっている民衆を煽っているようだった。
その後ろから、緊張した面持ちの彦之丞が牽く馬がしずしずと現れる。馬の背に俯き加減で揺られているのが、佐江姫だった。さらに後ろには嫁入り行列が続く。化粧道具を携えた下女らしき女性、長持ちを担いだ人足が続き、最後尾からは治直が馬を進めてくる。
城門前に、佐江姫の馬が横付けにされた。すぐに下足番が走り寄り、足台と履物を揃える。宗清が近付いて佐江姫の手を取り、馬から降りるのを手伝った時、その日一番の歓声が巻き起こった。万歳を唱える者までいたほどだ。
それからは一日があっという間に過ぎた。
中庭で神事が厳かに執り行われ、大広間に会場を移した宴席は、次の間までを開け放しにし、城中で立ち働く全ての人間が入れ代わり立ち代わりながらも参加することを得た。
そして、夜。
宗清が寝所に赴くと、寝具の横に髪を下ろし、三つ指を揃えた佐江姫が宗清を出迎えた。
宗清が落ち着かなげに寝具に座り、未だ平伏している佐江姫に声を掛けるまでには、たっぷりの間があった。
「・・・佐江殿。面を、上げられよ・・・。」
静かに顔を上げた佐江と宗清の目が、ぴたりと合った。
ほの暗い燈明の下で、実にこの時になって初めて、お互いがお互いの顔を正面から見据える形となった。
ほーっと、聞こえる程の音を立て、佐江が息を吐いた。ずっと息を殺していたらしい。
この春で十五歳になると言う佐江は、未だ幼さの残るふっくらしたかわいらしい女子だった。なんとはなしに白兎を連想させるくりくりとした目と、遠慮がちな小さな鼻、そしてこれだけはきりりとしている薄めの唇。
「佐江で、ございます。不束者ではございますが、幾久しゅう・・・。」
そこまで言って、言葉が止まった。どうやら、覚えてきた言葉を忘れてしまったらしい。たちまちに首まで真っ赤に染まり、落ち着かなげにもぞもぞと動き出した。
「ぷっ! ふふふ・・・挨拶を、忘れてしもうたか?」
「っ! あ、あのっ・・・! も、申し訳も・・・。」
「なに、構わぬ。儂も堅苦しいのは苦手じゃ。もはや夫婦なのだから、何も気にすることではない・・・。ところでどうじゃ、儂の顔は、佐江殿の好みに叶うたか?」
「は、はいっ!・・・あの・・・叔父様からは当世に名を残す武人と聞かされており・・・あの・・・恐ろしい顔をした方かと・・・でも、とても優し気で、安心を致しました!」
「はは! 正直だのぅ、佐江殿は!」
「殿様こそ、もはや夫婦でございますから、どうか佐江とお呼びになって下さいまし。・・・それと、私は、いかがでございましょうか・・・。」
佐江が不安げに小首を傾げ、宗清を見つめた。
「うむ。まこと愛らしい、かわゆげな嫁御様じゃ。武家に嫁いできて何かと不安も多かろうが、縁あって夫婦になった者同士、末永くよろしゅう頼む。困ったことがあれば、遠慮のう、相談してくれ。」
ぱっと顔を輝かせた佐江が「はい!」と元気に声を出して返事をした。こうして、この時代にはいかにも奇妙な夫婦が、ここに誕生することとなった。
「杉治は及ばざる籠とし」⑬
了。
#杉治は及ばざる籠とし #小説 #時代劇 #戦国
#時代小説 #長編小説 #連載小説 #ファンタジー小説
#架空戦記 #八神夜宵 #治直 #寿 #巫蝶 #八柄家