蓮ノ空の【必然性】にどうしようもなく魅かれてしまう
こんにちは。れんかと申します。
最初にはなりますが、この記事は以前書いた蓮ノ空1stの感想記事から一部をピックアップして、内容を増補したものです。そのため、過去記事を読んでいただいた方にとっては内容が重複してしまいますが、ご了承いただけると幸いです。
ライブの熱に浮かされた勢いで書いたら、全体の整合性がガタガタになってしまいまして…。感想記事の中には不要だけど、私自身が最も語りたい部分はここなんだ!というところを1本の記事として独立させてみることにしました。
あと、書いてみたらけっこうな文字数になっちゃいました。なので、蓮ノ空の話だけ読みたいよって方は、目次の最後の項目に飛んでください。それ以外の部分はド素人の創作論なので。
それでは
始まります。
【必然性】とは
まずは、タイトルでもわざわざ【】で囲った【必然性】について説明をしましょうか。
ここで用いる必然性という語には、多分に独自の意味が伴います。これは、元々は私がミステリをはじめとするフィクションを楽しむ際に用いていた要素でした。
必然性を明確に意識するようにきっかけは、ミステリにハマり始めた頃に読んだ『有栖川有栖の密室大図鑑』だったと思います。タイトルの通り、国内外の密室の名作を詳細な図録とネタバレ無しの解説と共に紹介してくれる名著です。が、ここですべきは必然性の話でしたね。
それでも、リンクだけは貼らせてください。ほんとにミステリ入門書として最高なので。
お付き合いいただきありがとうございます。
必然性の話に戻りますね。
この作品の中で、必然性という語を用いて密室トリックは往々にしてやりたいだけになってしまいがちである、という指摘がありまして。
これが、ガキなりにミステリを楽しんでいた当時の私が抱えていた違和感の解消を大いに助けてくれました。こっちはトリックは面白いのにイマイチ心が踊らない、一方こちらはトリックは地味なのに染み入るように面白い。はて、この読後感の違いは何なのだろう、と。
この記述をもとに、私は私独自の【必然性】という視点を持つようになりました。
一言で説明してしまえば、【物語の軸が一貫しているか】というだけの話なのですが、少し詳しく書いてみます。
ミステリ作品の基本的な流れは、
①謎を含む事件の発生→②探偵役による調査と推理→③謎の解決
という3ステップで説明できます。
そして、この3ステップ間の整合性こそが【必然性】です。例えば、①で起きた事件の謎と、③で述べられる謎の解説が全く異なる、というのは、必然性を損なった作品として最悪の例です。
商業化された作品においてこのような例はまずありませんが、次に述べる例はけっこう多いです。
それは、謎と動機との間で整合性が取れていない、というものです。
仮に、謎が「密室内でのボウガンによる射殺」、動機が「被害者に対する多額の借金」であったとします。借金をチャラにするために相手を殺害したいが、自分が殺人を犯したことを明らかにされたくない、だから密室という状況を作った、とすれば一見すると因果関係はあるように思われます。
しかし、謎は明らかに他殺を示すものです。そうなれば、探偵役は犯人候補らが被害者を手にかける理由を探るでしょう。こうなっては、「借金」という明確な動機を持つ犯人は確実に容疑者の1人に数えられ、わざわざ密室トリックを用意するメリットは小さくなってしまいます。それどころか、密室を生み出す工作に際して手掛かりを残してしまうリスクの方が圧倒的に大きくなるでしょう。
こうしたケースで大掛かりなトリックを用意するなら、自然死に見せ掛けられるものの方が必然性が生まれる、とは考えられないでしょうか。
では、必然性のある謎と動機とはどういったものか、という問いには、「衆人環視の下での毒殺」と「親族の屈辱を晴らす」という例を挙げてみます。私の示す例に必然性があるか否かを判断していただくべく、敢えて解説は省きますが。
そして、必然性の備わった作品の方が物語としての質が高いと感じやすい、と気付きました。ミステリ作品をミステリたらしめる謎が、ミステリ作品の看板を借りるためにただ置かれているだけというのでは味気ないですよね。やはり、謎が物語の根幹に関わっていてくれた方が物語に深みが出て良い……気がします。
この〈発見〉以降、【必然性】は私がミステリのみならず、フィクション全般と向き合う際の大原則になりました。
フィクションの【必然性】
「フィクションというものは、奇想天外だからこそ面白いんだ!わざわざ可能性を縛るような見方をするなんて的外れだ!」という指摘をされそうですし、現に昔の私もそう思っていました。
しかし、現在の私は基本的にはそうではないと考えます。
確かに、フィクションは自由です。あっと驚く手段で苦境を跳ね除ける主人公の姿に、予想だにしないストーリー展開に心を打たれた経験は一度や二度どころではありません。そして、それらが現実にはまず起こり得ないものであることも理解しています。
ですが、だからこそフィクションは【必然性】に縛られているべきだと思うのです。
ひとつ例を挙げましょう。私が好きなので、題材はサッカー漫画にしましょうか。
勝っても負けても引退試合になる、冬の全国大会決勝。延長後半終了間際、スコアは2-2。世代ナンバーワンのキーパーを擁する相手に、主人公チームがPK戦で勝つことは絶望的。そのため、何としてでももう1点が欲しい。
最後の力を振り絞り、仲間たちがゴール前の主人公の下へボールを届ける。絶好のシュートチャンスだ。
そして、主人公は渾身のシュートを放…
とうとしてミスキック!
全力のパワーシュートが来ると思っていたキーパーは反応が遅れる!!
GOAL!!!
これが決勝点となり、主人公チームは見事優勝!!!!
……どうです、コレ。
奇想天外です。予想だにしない結末です。
ですが、面白いですか?ずっと楽しみにしていた作品がこれをやって、感動できますか?
そういうことです。これは極端な例ではありますが、必然性を損なった物語は、同時に力を損ないます。
フィクションは自由で、著しく他者の権利を侵害しない限り何でもできる、と言っても過言ではありません。ですが、自由の意味を履き違えた無軌道は、作品の面白さに悪影響を及ぼすでしょう。もちろん、ギャグを主体とした作品など、この限りではない作品も多くあります。が、ここでは物語を中心に据えた作品を対象にしましょう。
そうして対象を絞ってもなお、必然性に関する疑問は解消されない、という方も多いでしょう。確かに、私の好きな作品の中でも『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』や『エヴァンゲリオン』シリーズなどは、必然性を説明できるかと聞かれたら不安なところです。
ですが、物語全体を貫く〈ルール〉の存在については感じることができると思います。……多分。うっすらと。
ごめんなさい、この辺りはまだまだ穴がありますね。
先に挙げた作品のような「整然としたカオス」としか形容できないもの、さらにはなんだかんだ言ってもお祭り騒ぎのような作品も好きなので、全てを必然性のみで説明することはできませんね。
ですが、基本的には全くの無軌道・無秩序は好きではない、という話です。
メディアミックス、リアルライブは【必然】か
結論から言ってしまえば、供給側から見れば必然なのだと思います。
現代はコンテンツも大量生産・大量消費される時代である、という言論が耳目に触れたことが一度はあるでしょう。事実としてそうなのでしょうし。
そして、それに伴い漫画は紙・電子・SNS等にレーベルや作品が乱立。アニメはアニメーターの人手不足から業界の疲弊やそこから来る先の見えないアニメ化の順番待ち、といった問題を抱えています。スマホゲーなんかは言わずもがなですね。
市場の拡大に伴い需要も増加しているとはいえ、多くのコンテンツは自分の取り分がどんどん少なくなっていることでしょう。単一メディアのみでの展開ではコンテンツの山に埋もれてしまう、仮に発見されたとしても存続できるだけの収益が見込めない。故に、導入期から複数メディアに展開して露出と収入源を増やすことが業界の常識になっている、といったところでしょうか。その結果、さらにコンテンツが濫造されるいたちごっこに陥り、ますます自分達の首を絞めていると言えなくもないのですが。
とにかく、そうした状況で白羽の矢が立ったのがリアルライブなのでしょう。
全てのコンテンツがやたらめったらに行えるものではない(はずだった)ので、埋もれるというリスクは薄いですし、何よりも目新しさからインパクトがありました。
ここを起点にして、並行して展開している他メディアへの誘導を図る、ということですね。
でも、そんな都合なんて需要側、少なくとも私には関係ないんですよね。
私は面白いものが、心踊るものが欲しいんです。「これに来てくれないと、これを買ってくれないと厳しくって……」なんて言われて急造品を見せられても、知らんとしか返しようがありません。広告塔になるメディアが強くても、他が全然ならさっさと帰ります。
冷たすぎやしないか、と思われるかもしれませんが、見込みのないコンテンツに買い支えなんて言って資金を資金を投入したところでその場凌ぎにしかなりません。良いものを作るという気概を失ったコンテンツの延命のために資源配分を歪める価値はあるのでしょうか。
というのは言い過ぎですね。気を悪くされたらごめんなさい。
流石にここまでは言いませんが、需要側、あるいは物語の観点から見て必然性が感じられるメディアミックスというものは多くないとは思っていますし、実際にこれに嫌気が差してメディアミックス要素の強いコンテンツからは身を引いてましたし。
じゃあ何で蓮ノ空を追ってるの?って話ですね。
ようやく本題です。
蓮ノ空の【必然性】
お待たせしました。やっと蓮ノ空の話ができます。
私は、『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』として展開される一連のコンテンツ、特にスマホ向けアプリ『Link!Like!ラブライブ!』とリアルライブとの間に強い必然性を感じています。
では、まずは必然性を判断する上で欠かせない『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』の軸を、蓮ノ空の特徴から見出していきましょう。
まず、アプリ内の機能を用いた生配信ですよね。キャラクターがキャラクターとして生配信を行う、というのは蓮ノ空独自の試みであると言えるでしょう。
また、現実と完全にリンクしたコンテンツ内時間の進み方というのも斬新ですよね。
上2つだけでも分かりそうですが、各所で用いられるコンテンツを説明する文言も参照してみます。
ここで改まって述べるまでもないかもしれませんが、これらから『蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ』のテーマ、並びにコンテンツ展開の軸がアプリタイトルにもある「Link」である、ということは明白でしょう。
同じ時間を共有することで、私たちの世界と作中の世界が「連動」していく。これが、『Link!Like!ラブライブ!』という体験の肝であると私は考えます。というか、公式から言われています。
そして、私が特に魅力的に感じた点がキャラクターと声優のリンクです。
時間の共有、という独自性を得た『Link!Like!ラブライブ!』(以下、リンクラ)にとって、リアルライブは無二の価値を持ちます。
それは、空間の共有です。
スクコネやFes×Liveなどのライブ配信、スクールカレンダーによって私たちは蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブのメンバーと時間を共有することが可能になりました。しかし、依然として空間の共有は果たせません。理由はシンプル。彼女らがバーチャルの存在だからです。
他のコンテンツならば、少なくとも私はこの事実に早々に諦めがつきます。いつまでも絢瀬絵里の影を追い求める私ではありません。しかし、リンクラにおいてはそうはいかないのです。なぜなら、私たちは既に時間という本来共有し得ないものを彼女らと共有してしまっているのですから。それならば、それ以上を求めてしまうのが人の常というものでしょう。
普通ならば叶わない願いです。しかし、時間の共有という奇跡を起こしてくれた蓮ノ空です。信じましょう。
そうして与えられる"答え"こそが、リアルライブなのです。
蓮ノ空のキャラクターを演じるキャストさんは、声のみならず、モーションキャプチャーを用いてより深くキャラクターを演じています。比喩などではなく、本当に言葉通りにキャストさんがキャラクターの生き写しとなる、この事実がリアルライブを真に空間の共有たらしめるのです。
デジタルコンテンツによる時間の共有を補完する、空間の共有を行えるコンテンツとして絶対的なプレゼンスを発揮する蓮ノ空のリアルライブ、私はそこに圧倒的な必然性と底知れない魅力を感じました。
なので行ってみました。1stツアー東京公演。
どうだったかというと……
私の感覚は間違っていなかった……!
本当に最高のライブでした。現時点で、来年4月から大学5年生になるかプロ騎空士になるかしか選択肢がない人間が清らかな涙を流せるくらいには最高。
具体的な内容は別の方のレポート記事を読んでいただけたら……
私のじゃなくていいので。むしろ、私のじゃない方がいいので。
以上が私の考える蓮ノ空によるリアルライブの必然性です。
この記事から蓮ノ空に興味を持っていただいた方、今なら!今ならまだ間に合います!!とりあえずアプリをインストールして、活動記録ってやつ見て!!!11/29にはFes×Liveっていうメチャスゴ配信ライブも無料で見られるから時間合いそうならそっちも見て!!!!11月以降にこの記事見た方も安心して!!!!!このFes×Live、毎月末やってるし、何ならアプリ内から過去のアーカイブも見られちゃうから!!!!!!
終わります!!!!!!!!