どう死にたいか(つまりはどう生きていたいか)
どんな生き物にも、どんな人生にも、平等に訪れる死。
去年の12月ごろから、死ぬことについて、つまり生きることについて、
直接的にも間接的にも考えてて、今日それがピコーんと繋がったのでメモ。
星野源と藤井風の年末にリリースされた新曲がどちらも死や終わりをテーマにしてて、割とズドンと直球で表現してる感じ、めちゃんこかっこよくて美しくて光ってて、じんわりと感動してる。死ぬことは、どれだけ恐れようが、見たくなかろうが、必ず避けられない事実で、いつ死ぬかをほぼ決められない。それなら、どう死にたいか?死ぬときに何を想い、何を遺し、何を残したくないのか?と考えてる。
てか風くんのMVみた?もうみんなとっくに観たか…すごいね。わたしゃ感激衝撃でぶっ飛びそうだったよ。
ほんで、いつも聴いている服部みれいさんの声のメルマガでも死の話がよく出てきて「死ぬことは始まりで、喜びで、解放で、実はすんばらしいことである」的なことを言ってた。おまけに2023⇨2024はひとつの時代の終わり、つまり始まりのとき、って星の流れ的にも言われてるとか、さ。ね。
そこから、年始に大きな地震を体験し、幸い避難こそしなかったけど、
目の前で割れるガラス、動く冷蔵庫、揺れる景色。さて、本当に必要なものとは、必要な関係性とは、なんだ?と突きつけられた。生活はそれでも続くけど、常に頭のすみっこにある、いつ死ぬかわからんな、という生々しい感覚。それでも暖かい部屋で、電気も水道もガスもストーブもある中でのうのうとパソコンを開いて文章を書けるこの幸福さといったらすごい。
ふと聴いた三宅洋平率いる犬式の曲に、"Today is the good day to die." というフレーズがある。今日が死ぬのによき日だと、いま、言えるだろうか。
どう死にたいか考えることはすなわち、
どう在りたいか、生きたいかを考えることである。
この数日そのことについて寝ても覚めても泉のように考察が溢れて、
なにかの答えあわせのようなが閃きが湧き出てきてている。
わたしは、死ぬときに
何かを愛している、あたたかくてまるくてせんさいな心地よさを感じたい。わたしは、死ぬときに、
畑に撒いた種が芽を出し花を咲かせ、実る未来を信じて微笑みたい。
わたしは、死ぬときに、
自分が愛そのもので、宇宙と調和していた、とひとりにやけて終わりたい。
そして、土に還りたい。
ん、いや〜誰かと共感共鳴できたらもっと幸せかな〜
でも、最期は必ずひとりなのだ。生も死も、ひとり。それぞれ、ばらばら。
生きているうちに、めいっぱい共感共鳴したらいいんだねきっと。
肉体を持って産まれたこのいのちを、生き切ること。使い切ること。
使命を知って、全うすること。でも細かいことはどっちでもよくて
いい悪いジャッジメントがない、ただ、そこに愛の存在としてあり続けたい。そのために種をまき、また種をとり、土に触れて、その喜びを感じるために行動するんだろうね。
こんな感じ。今のところ。
2024/1/26 満月の夜に。